小島なお連作評 -100首連作「両手をあげて、夏へ」-

 「両手をあげて、夏へ」は、2021年8月号の短歌研究に掲載された100首連作。章立てなどはなく、100首の歌が区切れなくそのまま並べられている。

 小島の既発表作のなかでは比較的読み解くのに苦労するが、小島なおという歌人へのイメージの塗り替えを迫るような歌も多くあり、最後まで退屈せず読むことができる。

 連作全体のテーマ、とまで言っていいのかはわからないが、「子どもをもてない(もたない)こと」は、この連作における大きな主題のひとつになっているように思う。関連しそうな歌を中心に引いていく。

産むという魚にもできることできず突風を踏み踏んで歩めり

 「魚にもできることできず」という把握のしかたに胸がくるしくなる。「突風」とは、どこから吹いてくる風なのか。

生んでいない子を思うこと増えながらあかるいパンジー大きなくらやみ

 パンジーというのはスミレ科の植物。あざやかな花弁の外側とは反対に、内側は吸い込むような黒色をしている。

生みたくて生めないもののきらめきは目を瞑っても目蓋に透けて

 そのまま言いすぎているきらいもあるが、その”そのまま”さによってかえって切実さがうまれているように思う。見ないように努めても、視界にはいってくる「きらめき」。

 子をもつこと/もたないことにはっきりと言及している歌はこの連作以外でも見られ、印象的だったものを一首引用する。 

子を産まぬミーアキャットは子を産みしミーアキャットのヘルパーとなる/『展開図』「ミーアキャット」

 ミーアキャットは哺乳類のなかでもっとも同種を殺す割合が高いらしい。子どもを産んだ上位のメスが下位のメスの子どもを殺すからだという。

 連作にもどる。

ビニール傘廊下に干せば雨匂う隔たりながら思う生殖

 結句の「生殖」に、ぎょっとさせられる。『展開図』以降から、こういう生々しい表現に出会うことが増えた気がする。

 以下は、ことしアンソロジストvol.4に掲載された連作のうちの二首。

水掻きに触って。言葉はからだよりずっと後から生まれた性器/「卵焼きかわいそう」

茶葉ふやけきみをこの世に連れてきた子宮のことを忘れないでね/同

 性器、子宮。 

質問に答えていたらここにいた 夏には白い靴履くように

 いつ結婚するのか、だれと結婚するのか、子どもはほしいのか、子どもはいつつくるのか。初句の「質問」とはそういうものとして読んだ。「夏」「白い靴」という取り合わせが、「ここ」の孤立感を際立たせている。

手に取れば卵の内に繋がれる戦争ひとりきりの戦争

 子どもをもてばもったなりの地獄があり、もたなければもたなかったなりの地獄がある。無傷でいることは避けられず、どちらを選ぶかの葛藤は、個人のなかで戦争としか思えないほどの激しさになる。

包帯の転がるような月の夜矢印があれば矢印に沿う

 下の句から、皮肉のような、反抗的なニュアンスを読みとる。瀬戸夏子は『はつなつみずうみ分光器』で、小島について素直と評したが、掲出歌を読むと、その美質はもう失われてしまったように思える。それが、いろんな選択を迫られるなかで失わざるをえなかったからなのだとしたら、悲しくもある。

繋いだりしないで星を D棟のひとつ開いている夜の窓

 星はひとつでも輝いていられるのだから、わざわざほかの星と繋いで、星座の一員にしなくていい。やっかいなのは、星座が多くのひとにとって、ロマンチックでうつくしいものだということ。

 産むことと星を結びつけた歌をもう一首取り上げる。 

さぼてんに付けられし名は月世界 自家受精して産毛がそよぐ/『展開図』「自家受精」

 自家受精とは、おなじ個体からうまれた精子卵子が結びつくことで起こる受精。月は、太陽の光によって"かがやくことを許される"。

蝶の目と蝶の翅の目 見るものが見たものになり私になった

 蝶の翅の目は(眼状紋というらしい)、自分たちを捕食する者の天敵となる動物の眼を模しているのだという。襲ってくる者がいなければ、そんな翅にはならなかった。

かなしみがコンビニをつよく光らせる 手すりづたいに感情をゆく

雨粒の密度にも似た会いたさが手すりを濡らし窓を叩けり

蔦だった。欲望だった。指紋だった。名だった。比喩だった。蔦だった。

 現実に感情がしたがうのではなく、感情に現実がしたがう。連作の終盤にはそういう歌も見られる。小島はもっぱら前者の歌をつくる歌人だと思っていたのだが、この連作でおおきく認識を変えられた。これまでの歌にはない、世界に対するくっきりとした主体性が感じとれる。

皮膚のなか骨のなかまでまなざしは届くよ両手をあげて、夏へ

 表題歌は、きっとそういうことだと思う。