永井亘を読む -『空間における殺人の再現』-

メリーゴーランドは破綻した馬を雇い不自然だがどこか微笑ましい

数はどんな数でも数え 飛行機と砂漠は夏を偶然にする

この海が紅茶に沈みこの舟も角砂糖のように溶けるから海だ

錆びついた翼を嫌う天使たち歴史のように海まで歩く

見える手を見えない手まで伸ばしつつベランダ夜の部屋遠くなる

気高さが望み通りの靴になりあなたにしては大切な翳り

そういえば何も知らない たくさんの柱にすぎない街を歩いた

終わらない光のなかでどれほどの驟雨を浴びた太陽だろう

ある晴れた午後にフランスパンを買う 川の向こうを覚えていたら

夏はまもなく雲であふれて滑らかに人の姿を記述していく

 気に入った歌を10首引いてみる。どの歌も、歌から立ち上がるイメージがきれいだと思う。とくに気に入っているのは4首目。「歴史のように」という直喩も、それを「歩く」という動詞に接続していることも挑戦的だと思う。掲出した歌について、「現代短歌」のNo.97に掲載されている永井亘の自選10首と見比べてみたところ、被っていた歌はひとつもなかった。

 ビジュアル面での主張の強さやとっつきにくそうな歌集名から、半年以上読まず嫌いを続けていた。ようやく読んでみた感想としては、思ったより悪くはなかったし、読まないよりは間違いなく読んでおいてよかった。

 事前の予想と、歌の雰囲気がかなりかけ離れていた。(装丁やタイトルが原因だが)英語やら数字やらが多用された小難しい歌が多いんだろうなあ…という先入観を持ってこの歌集を手に取ったのだが、そういう歌はまったくと言っていいほどない。作中主体の感情について掴みきれない歌は多いものの、強烈に突き放されている感じもせず、歌の雰囲気としては堂園昌彦とかが近い気がする。永井のほうが使用されている名詞の抽象度が高く、もう少し淡白ではあるのだが…。

 タイトルや歌で使用されている単語を見るに、個々の連作について、おそらく何らかの筋書きに沿って歌が配置されているのだろうが、わたしはそれを汲み取ることができなかった。とはいえ、一首単位で読んでも十分に楽しむことができる歌集だったように思う。

 引っかかった点を書いておくと、少なくともわたしは、この歌の内容でこの造本にする意義をあまり感じることができなかった。

 前述した号数の「現代短歌」において、なぜこのような凝った作りの歌集にしたのかについて永井自身の口から語られており、本人なりの必然性は一応あるようだったのだが、わたしはあまり共感ができなかった(べつにそこまで読み手を選ぶ歌なわけでもないのに、変に敷居を上げてしまっている気がする)。

とにかく歌集が自分だけで閉塞してしまうのが嫌で、他者の記述や落書きがあってもいいんじゃないかと思ってました。作者にとっても、スクラップブックやノートブックであってほしい。寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』じゃないですけれど、読者だったりが歌集というノートを持って町に出る。すでに書き込まれていることに加えて、さらに自分でも記述していく。

 これを読んでも、いや歌集ってそういうもんじゃん…?と思ってしまうし、自分の歌に自信があればあるほど、テキスト以外の情報は遮断して歌を読んでもらいたいと思うタイプなので、どちらが良いとか悪いとかではなく、思想の違いとしか言いようがない。