飯田有子を読む -『林檎貫通式』-

のしかかる腕がつぎつぎ現れて永遠に馬跳びの馬でいる夢

負けたとは思ってないわシャツはだけかさぶたみたいな乳首曝しても

駈けてゆけバージンロードを晴ればれと羽根付き生理ナプキンつけて

 「のしかかる」のは誰で、「負かした」のは誰なのか。なぜわざわざ「羽根付き生理ナプキンをつけていること」に言及しないといけないのか。これらの歌が、フェミニズムの文脈で解釈されるまでに十数年もかかったことが、わたしには不思議に映る。

 錦見による”読み直し”の後※1、 『はつなつみずうみ分光器』や「ねむらない樹」vol.6において、同様の視点での取り上げ方をされたおかげで、すでに大多数の人は『林檎貫通式』について、”そういう歌集”であると認識しているのではないかと思う。

 わたしもそれらについて読んだうえで、今回この歌集に臨んだものの、正直、まだまだ取りこぼされている部分が多い歌集だと感じる。先行する評のなかで取り上げられている歌の多くは、詩的な飛躍が少なく、歌意の読み取りやすい歌ばかりで、(おそらく)飯田の本領と思われる、大胆で爆発力のある歌については、言及が非常に少ない。

造られた薔薇にたちまち汗浮かび憧憬器官ってそれ?これ? いいえ

水中にのびちぢみする血をみてましたメスのペガサスのような瞳で

「食パンが胸につまるの五月なの本の右側しか読まないの」

 飯田と言えばまず連想されるのが「枝毛姉さん」の歌だが、『林檎貫通式』は、そのような奇抜で、歌意の取りづらい歌がほとんどを占める。2001年時点で、掲出歌のような、読み手の理解を得づらいだろう歌で戦う覚悟を見せていることにも※2、すでに大胆に口語を使いこなしていることにも、わたしは驚いてしまう。一首に押し込められているモチーフの過剰さも異質で、穂村弘を連想もさせる。

ダースベイダーの寝息みたいにやかましく規則ただしく聞こえてたっけ

投与のことも水音と呼ぶ夕ぐれにどこでおちあう魂だったの

運のいい男がすきよ首のそれは絶対溶けない硬い硬い氷?

 飯田は、平岡直子の(私的)五歌仙としてピックアップされているのだが※3、これらの歌を読むと、平岡が飯田から非常に影響を受けていることがわかると思う。

だれとだってできることでしょ一突きでクラッシュアップルパイできあがり

わたくしは少女ではなく土踏まずもたない夏の皇帝だった

ひまわりのはっぱの下で厳粛にたちしょんべんをしてみた真夏

微笑んだかたちのままにくちびるを重ね合わせたへんな口づけ

すべてを選択します別名で保存します膝で立ってKの頭を抱えました

「怒りを鎮めるクラシック10」聴きながらぐるぐるかきまわすだけのコーヒー

 上2つの歌の歯切れの良さは服部真里子を、中2つの歌の湿度の高さは山崎聡子を、下2つの歌のデジタルに対する独特の把握は青松や佐クマを連想させる。彼ら彼女らが飯田の歌にどこまで影響を受けたのかは不明だが、こうして見てみると、なんだか飯田がいま活躍している歌人の源流のようにも見えてしまう。飯田について、後続の歌人との影響関係をはじめ、もっと分析されるべき歌人だと思う。

 

〈注釈〉

   ※1 錦見映理子『めくるめく短歌たち』を参照。

 ※2 飯田の約20年後に歌集を出した平岡がこう言っているのだから、当時の飯田はどこまで自分の表現を確信しないといけなかったんだろう、と途方もない気持ちになる。

 ※3 日々のクオリアの平岡直子担当回を参照。飯田の他には、我妻俊樹、正岡豊、宇都宮敦、雪舟えまの四人が挙げられている。