山崎聡子を読む -『てのひらの花火』『青い舌』-

 先日、山崎聡子の既刊歌集『てのひらの花火』『青い舌』の両方を読み終えた。第一歌集から第二歌集にかけて、とても正統な進化を遂げた歌人だと感じた。

絵の具くさい友のあたまを抱くときにわたしにもっとも遠いよ死後は/『てのひらの花火』

クレヨンに似た匂いする髪の毛をわたしももっていたのよ、真昼/『青い舌』

忠魂碑 きれいな釦つけたシャツ着てはほほ笑む戦死者のこと/『てのひらの花火』

青い舌みせあいわらう八月の夜コンビニの前 ダイアナ忌/『青い舌』

喉鳴らすような地声の母親がぼろんぼろんとこぼす線香/『てのひらの花火』

夢にみる母は若くてキッチンにバージニアスリムの煙がにおう/『青い舌』

電車って燃えつきながら走るから見送るだけで今日はいいんだ/『てのひらの花火』

尻尾にガスの匂いをさせる夕闇のバス、わたしたち、のまれてしまう/『青い舌』

粉乳のにおいを肌にまといつつ誰かの父となる人のこと/『てのひらの花火』

父親の顔したひとを見ていたら次はあなたに産まれてしまう/『青い舌』

 近似する歌をそれぞれ五首引いてみる。『青い舌』のほうが湿度があって、歌としての強度が増しているように思う。比較的若手で、既に数冊歌集を出している女性の歌人だと、山崎の他には小島なおや大森静佳が思い浮かぶが、小島や大森がモチーフの選定や文体でいろいろ冒険しているのに対して、山崎は自分の美質を掘り下げることに専念している印象を受けた。

 しかし、気になることがある。『青い舌』は2022年に塚本邦雄賞を受賞していて、その年の「短歌研究」の10月号には、自選三十首と選考委員(北村薫、坂井修一、穂村弘水原紫苑)による選評が載っているのだが、選考委員が評中で取り上げている歌には納得ができるものの、山崎が自選で引いている歌にどうも納得がいかない。

 山崎の強みについて、わたしは、名詞が有する五感の喚起力だと思っているのだが、自選の三十首には、それがじゅうぶん発揮されている歌があまり取られていないように感じた(どの歌が選ばれているかは、当該号数の短歌研究を確認してみてほしい)。

うさぎ当番の夢をみていた血の匂いが水の匂いに流されるまで

牡蠣食べて震える舌よどこまでも私が生きるこの生のこと

雲梯をにぎって鉄の味がする両手をあなたの肩にまわした

墨汁が匂う日暮れのただなかのわたしが死ねと言われてた道

水は苦しい光なんだよきれいだね 笑う温度計の白熊

夕立ちに子どものあたま濡れさせて役に立たない手のひらだった

淋しさを水に例えていうことの、子供をもっていることの、舟

縄跳びに入れないままおしっこで湿る体を携えていた

この世から繋ぎとめられてる気がしてた風吹き荒れる屋上広場

逆光のなかに立たせた母親を許す冷たい真夜のふとんで

 わたしが選ぶべきだと思ったのはたとえばこういう歌で、この十首は「短歌研究」に自選三十首を載せるにあたって”落とされた”歌だが、見比べてみてどうも納得がいかない。連作「赤い眼をして生きてきて」の歌がほとんど採られていないことも不満だった。

 おなじようなことは、第一歌集の刊行時点でも起きている。『手のひらの花火』では、山崎が短歌研究新人賞で受賞したときの「死と放埒なきみの目と」が掲載されているのだが、あらためて歌集に掲載するにあたって、受賞作のときには載っていた歌が5首ほど落とされている。そのうちの一つに、

罪深いおしゃべりばかり溢れだす、カローラ、義兄の白いカローラ

があるのだが、これを落としたのも、わたしはちょっと信じられない思いだった。

 ともあれ、山崎について、わたしが比較的若手の歌人のなかで期待を寄せている一人であることは間違いなく、とくに、『てのひらの花火』に収録の連作「卵とカルピス」や「グロリア」を読んで、詞書のある連作にもっと挑戦してみてはと思った。集中に掲載されている短編?の「夏のできごと」もよく、小説の才能があるのではとさえ思う。

 最後に、『青い舌』のなかから気にいっている歌を三首引用する。

どうしてこの人に似てるんだろう夜の手前で暗さが止まって見えてた日暮れ

「あなたには何もないの」と言うときの目でアイシテル、母、アイシテル

わたしはあなたにならない意思のなかにある淋しさに火という火をくべる