歌集読書会「渚」について

歌集読書会「渚(なぎさ)」では、参加者全員が安心して読書会を楽しむことができるよう、下記のルールを定めております。大切なことですので、必ず事前にお読みいただくようお願いいたします。

 

〈開催ポリシー〉

  1. 性別、年齢、歌歴問わず、どなたでもご参加いただけます。主催者の知り合いであるかどうかも問いません。お気軽にご参加ください。
  2. あらゆるハラスメント行為、ポリティカル・コレクトネスに反する発言について、厳格に対応いたします。
  3. 参加者から個人情報について聞き出すこと、参加者の話した個人情報を会外に漏らすことについて、固く禁じます。

 

〈当日まで〉

  1. 当日使用するレジュメについて、会の一週間前までにお送りさせていただきます。レジュメについては事前に読み込まれたうえでご参加いただくようお願いいたします。
  2. 参加URL(Zoom)については、会の前日までに主催者よりお送りいたします。
  3. Zoomにおける参加者名については、事前に、呼ばれたいお名前に設定いただくようお願いいたします。

 

〈読書会について〉

  1. カメラオフにてご参加ください(主催者もカメラオフで参加いたします)。
  2. 会の様子については録音させていただく場合がございます。
  3. 会についてはレジュメに沿いつつも自由に進行することを想定しております。
  4. 1時間ごとに休憩を挟むことを想定しております。
  5. 会中、(体調がすぐれないなど)お困りごとがございましたら、お気軽にご相談ください。
  6. 懇親の時間(後述)も含めて、全体で2〜3時間の想定です。

 

〈歌会後〉

  1. 会後、20分〜30分ほど懇親の時間をお取りします。ご用がある方などはいつでも離脱いただいて構いません。
  2. 会内での発言については、発言者を伏せたうえで主催者発行の個人誌「水際」にて取り上げさせていただく場合があります。
  3. 会の運営について、ご意見・ご要望がございましたら、お気軽にお寄せください。

歌会「汀」について

歌会「汀(みぎわ)」では、参加者全員が安心して歌会を楽しむことができるよう、下記のルールを定めております。大切なことですので、必ず事前にお読みいただくようお願いいたします。

 

〈開催ポリシー〉

  1. 性別、年齢、歌歴問わず、どなたでもご参加いただけます。主催者の知り合いであるかどうかも問いません。お気軽にご参加ください。
  2. 詠草について、作者の了承なく公開・引用しないようお願いいたします(本歌会にご提出いただく詠草については未発表扱いとなります)。
  3. あらゆるハラスメント行為、ポリティカル・コレクトネスに反する発言について、厳格に対応いたします。
  4. 参加者から個人情報について聞き出すこと、参加者の話した個人情報を歌会外に漏らすことについて、固く禁じます。

 

〈歌会まで〉

  1. 詠草については、歌会の前々日までの提出をお願いいたします(日曜日に開催予定であれば、金曜日の23時59分まで)。提出が遅れる場合は、事前のご連絡をお願いいたします。ご連絡なく詠草の提出がなかった場合は、自動的にキャンセル扱いとさせていただきます。
  2. 参加URL(Zoom)については、歌会の前日までに主催者よりお送りいたします。
  3. 詠草一覧については、歌会当日の正午〜夕方までを目処にお送りいたします。事前の読み込みは不要です。
  4. Zoomにおける参加者名については、事前に、呼ばれたいお名前に設定いただくようお願いいたします。

 

〈歌会について〉

  1. 選は行いません。
  2. カメラオフにてご参加ください(主催者もカメラオフで参加いたします)。
  3. 歌会の最初に、詠草をお読みいただく時間を10分〜15分ほど設けます。詠草については、この時間にお読みいただければ幸いです。
  4. 歌会中は、45分〜1時間ごとに休憩を挟むことを想定しております。
  5. 歌会中、(体調がすぐれないなど)お困りごとがございましたら、お気軽にご相談ください。
  6. すべての歌の評が終わりましたら、解題(作者名の発表)に移ります。作歌の意図については、お話いただいてもいただかなくても結構です。
  7. 懇親の時間(後述)も含めて、全体で2〜3時間の想定です。

 

〈歌会後〉

  1. 解題後、20分〜30分ほど懇親の時間をお取りします。歌会後にご用がある方などはいつでも離脱いただいて構いません。
  2. 参加者の発言・振る舞いについて、主催者が公の場で言及することは基本的にいたしません(「〇〇さんが△△と言っていた〜」など)。
  3. 歌会の運営について、ご意見・ご要望がございましたら、お気軽にお寄せください。

青松輝一首評 連作「痛みについて」より

Things Go Better With Coke. 埋没の二重瞼を見せてもらった

 音楽にはまったく疎くて知らなかったのだが、調べたところ「Things Go Better With Coke」というのは、コカ・コーラの販促目的でイギリスの「The Who」というロックバンドがつくったCMソングらしい。

Things Go Better With Coke - YouTube

 公式と思われるバンドのYoutubeアカウントに曲がアップされていたので聞いてみたところ、

Things Go Better With Coke 

Coca-Cola

Things Go Better With Coke 

しか歌詞がない、30秒程度のみじかい曲だった。ほんとうにCMのためだけにつくられたようだ。

 「Things Go Better With Coke.」について、何音で読むのがいいんだろうと思う。「しんぐすごお(6音)」「べたあうぃずこおく(8音)」?でも、曲を聞いてみると、「Things」の「s」 Cokeの「ke」は発声されていない。なので、「しんぐごお(5音)」「べたあうぃずこお(7音)」と読んだほうがいいのか?でも、英語が織り込まれている歌を読むときにいちいちそんな本場っぽい読み方しないよな…とも思う。あいだをとって、わたしは「しんぐごー(5.5音)」「べたーうぃずこー(7.5音)と読む(たぶん音数に小数点の概念はないだろうが…)。

i c a n s e e y o u . たばこから煙はあがりすべてが火とともに壊れていく

愛のWAVE 光のFAKE どうしよう、とりあえず、生きていてもらってもいいですか?

I can't remember a passcode for my private Google account.

 『4』には、英語を織り交ぜた歌が頻出する。すべて大文字なこともあれば、すべて小文字なことも、頭文字だけ大文字なこともある。とにかく英語が好きだし、表記も、醸したいニュアンスによってこだわりをもって選択されているように感じる。

Things Go Better With Coke. 埋没の二重瞼を見せてもらった

THINGS GO BETTER WITH COKE. 埋没の二重瞼を見せてもらった ※本記事用に作成

 冒頭で掲出した歌について、表記ごとに見比べてみる。個人的に、字余りは小文字と相性がいいと思う。規定の音数をはみ出すことによって生じるたるみが、小文字のつっぱらない感じとかけあわさって、歌に後味が生まれている。前者と後者で選ぶなら、断然前者だと思う。

性行為を演技しているきみの世界・世界にあるすべてのペプシ

球場に、神社に、飛行機に、わたしに、日本のアメリカのCoca-Cola

 『4』には、ほかにもコーラの歌がでてくる。おそらく、炭酸のしゅわしゅわした爽やかさを加えて、予定調和を壊す目的で取り入れられているのだと思う。いちばん最初に掲出した歌も、「埋没の二重瞼を見せてもらった」という重く感じさせられる事実が、「Things Go Better With Coke.」で相殺されてライトな感じになっている。

火花放電 僕に子供が生まれてもネーミング・ライツは買わなくていい

チェーンソーで車を切るときの火花の花散るさみしいココロのラッシュ

 これらの歌の「火花放電」とか「ラッシュ」とかもコーラ的なもの?として捉えてもいいのかなと思う。(全然脱線するけど、ネーミングライツにもまたナカグロ使ってる…)

 歌の内容についても言及しておく。「埋没の二重瞼を見せてもらった」という事実の裏には、作中主体と見せてくれた相手が親密な間柄であること、埋没をしたというカミングアウトが見せてもらう前にあったであろうことを想像させる。

 前述したように、わたしはこの事実にちょっと重みを感じるのだが、10代後半くらいの女の子が読んだら、あまりそんな感じはしないのかもしれない(最近の若い女性は整形に関して深刻なことと捉えていない、みたいな記事を前に読んだ気がする)。逆に、40代以上の人が読んだら、そもそも埋没とはなんぞや?となる気もしていて、読み手の写し鏡にもなる歌だと思う。

 「Things Go Better With Coke. 」については、結局どう捉えるのがいいのだろう。わざわざピリオドがついていることから、作中主体の台詞と捉えてもいいのかもしれない。台詞と捉えた場合、この台詞は、二重瞼を見せてもらう前なのか、後なのか。おそらく後と読むほうが正しい気がするけど、二重瞼を見せてもらったあとに、「コーラで何事も上手くいく」という返しはおかしい。もしかしてそういうジョークなの…か…?

魚村晋太郎を読む -『銀耳』-

 読み終えたときにため息が出た歌集だった。評を書くのも無粋に感じるような澄んだ歌ばかりで、ことし手に取った歌集のなかではトップレベルによかったと思う。

北辺に逐ひやらはれてしづまるかウラニウムの神プルトニウムの神/『ウランと白鳥』

モノレール終着駅を過ぎ昨夜天使を棄てた丘を見下ろす

なにはともあれ今日の若者の会合を日本語の外から急襲するか/『ヴォツェック/海と陸』

身から出た錆を肴に高瀬川髭薄き伯父貴と梯子酒して

何もしないことが復讐となるやうな根深の白い茎をみてゐる/『馴鹿時代今か来向かふ』

雪が降りさうでふらない休日の薄きラヂオにともすFM

もはやいかなるナショナリストも歩まざる林の枝を渡る夕光/『家常茶飯』

先頭車両までを歩めりファシズムが青葉のやうに柔らかき朝

バルコンに降る雨脚の尖だけが肉感的でしかもしづかだ/『ネフスキイ』

窓にゐて五月の雨をみるやうに静かだひとの鬱にふれても

 あとがきを寄せている岡井と5首ずつ掲出。岡井と比べると、茶目っ気がなく寡黙な作中主体が浮かびあがるように思う。小粋というより粋な男性像。

感情を類別しつつ翠鳥の青黴乾酪(ブルーチーズ)を薄皿にとる

どれがわたしの欲望なのか傘立てに並ぶビニールの傘の白い柄

 「感情を類別しつつ」「どれがわたしの欲望なのか」からも、主体について、抑制的な人物であることがが伺える。ただ、大人びている一方、まだ青年期特有のストイシズムを残しているのかなとも思う。

ゆつくりとひとを裏切る 芽キャベツのポトフで遅い昼をすませて

人間の壊れやすさ、と思いつつ炙られた海老の頭をしやぶる

 情+景で構成される手堅いつくりの歌が多い。ただ、どの歌も人間の暗部を細かく掬い上げていて、読んでいて退屈しない。

流麗に悲しむひとの住む都市へ夜もすがら川は砂を運べり

北極で北を失ふのと同じ 話すことなくて微笑んでゐる

 ときおりスケールの大きい歌も現れるが、そういう歌にもうっすらとした暗さが漂っている。

 最後に気に入った歌を二首。

抜歯後の痺れた空にこの冬の鷗はかたい翼をはこぶ

あたたかく紅茶の染みがひろがつてゆくネクタイを締める間に

飯田有子を読む -『林檎貫通式』-

のしかかる腕がつぎつぎ現れて永遠に馬跳びの馬でいる夢

負けたとは思ってないわシャツはだけかさぶたみたいな乳首曝しても

駈けてゆけバージンロードを晴ればれと羽根付き生理ナプキンつけて

 「のしかかる」のは誰で、「負かした」のは誰なのか。なぜわざわざ「羽根付き生理ナプキンをつけていること」に言及しないといけないのか。これらの歌が、フェミニズムの文脈で解釈されるまでに十数年もかかったことが、わたしには不思議に映る。

 錦見による”読み直し”の後※1、 『はつなつみずうみ分光器』や「ねむらない樹」vol.6において、同様の視点での取り上げ方をされたおかげで、すでに大多数の人は『林檎貫通式』について、”そういう歌集”であると認識しているのではないかと思う。

 わたしもそれらについて読んだうえで、今回この歌集に臨んだものの、正直、まだまだ取りこぼされている部分が多い歌集だと感じる。先行する評のなかで取り上げられている歌の多くは、詩的な飛躍が少なく、歌意の読み取りやすい歌ばかりで、(おそらく)飯田の本領と思われる、大胆で爆発力のある歌については、言及が非常に少ない。

造られた薔薇にたちまち汗浮かび憧憬器官ってそれ?これ? いいえ

水中にのびちぢみする血をみてましたメスのペガサスのような瞳で

「食パンが胸につまるの五月なの本の右側しか読まないの」

 飯田と言えばまず連想されるのが「枝毛姉さん」の歌だが、『林檎貫通式』は、そのような奇抜で、歌意の取りづらい歌がほとんどを占める。2001年時点で、掲出歌のような、読み手の理解を得づらいだろう歌で戦う覚悟を見せていることにも※2、すでに大胆に口語を使いこなしていることにも、わたしは驚いてしまう。一首に押し込められているモチーフの過剰さも異質で、穂村弘を連想もさせる。

ダースベイダーの寝息みたいにやかましく規則ただしく聞こえてたっけ

投与のことも水音と呼ぶ夕ぐれにどこでおちあう魂だったの

運のいい男がすきよ首のそれは絶対溶けない硬い硬い氷?

 飯田は、平岡直子の(私的)五歌仙としてピックアップされているのだが※3、これらの歌を読むと、平岡が飯田から非常に影響を受けていることがわかると思う。

だれとだってできることでしょ一突きでクラッシュアップルパイできあがり

わたくしは少女ではなく土踏まずもたない夏の皇帝だった

ひまわりのはっぱの下で厳粛にたちしょんべんをしてみた真夏

微笑んだかたちのままにくちびるを重ね合わせたへんな口づけ

すべてを選択します別名で保存します膝で立ってKの頭を抱えました

「怒りを鎮めるクラシック10」聴きながらぐるぐるかきまわすだけのコーヒー

 上2つの歌の歯切れの良さは服部真里子を、中2つの歌の湿度の高さは山崎聡子を、下2つの歌のデジタルに対する独特の把握は青松や佐クマを連想させる。彼ら彼女らが飯田の歌にどこまで影響を受けたのかは不明だが、こうして見てみると、なんだか飯田がいま活躍している歌人の源流のようにも見えてしまう。飯田について、後続の歌人との影響関係をはじめ、もっと分析されるべき歌人だと思う。

 

〈注釈〉

   ※1 錦見映理子『めくるめく短歌たち』を参照。

 ※2 飯田の約20年後に歌集を出した平岡がこう言っているのだから、当時の飯田はどこまで自分の表現を確信しないといけなかったんだろう、と途方もない気持ちになる。

 ※3 日々のクオリアの平岡直子担当回を参照。飯田の他には、我妻俊樹、正岡豊、宇都宮敦、雪舟えまの四人が挙げられている。

北山あさひを読む -『崖にて』-

 今クールから再び放送されている呪術廻戦を見ているのだが、五条役の中村悠一の芝居がどうも鼻につく。音響監督のディレクションなのかわからないが、こういうのが好きなんだろ的な視聴者への目配せを感じて、うっ…とキツくなってしまう。

残高の十八円がほんとうの友達だから泣かずに帰る

がんばったところで誰も見ていない日本の北で窓開けている

恋人が兵隊になり兵隊が神様になる ニッポンはギャグ

 『崖にて』の歌も、同じような、見ている側への目配せを感じてしまい、わたしは苦手だ。こういう歌を、言ってやったぞと言わんばかりに読ませてくる北山も、よく言ってくれたと思いながら読んでいるだろう北山の読者も、わたしは得意ではない。

あの赤いプラダの財布よかったな買おうかな働いて働いて

あめかぜに髪を舞わせて納税す私の武器は私のこころ

午前二時の鏡の中の乳首二つもうやめるんだ ハワイ行きたい

 望む望まないに関わらず、『崖にて』を読んでいると、読者は北山あさひという一人の顔を思い浮かべざるを得ない。だから、瀬戸夏子とか青松輝とか、アンチ私性の歌人が北山の歌を褒めているのを見ると、かなり不思議な気持ちになる。

星ひとつぶ口内炎のように燃ゆ〈生きづらさ〉などふつうのテーマ

 記号的な弱者性を自分に課さなくても現状や構造は批判できる。一方で、当事者からの声が最も切実に心に響くという事実とも、読者は向き合わなければならない。もしかして北山にこう言わせているのは私なのか。 ※「北・山」

 もちろん、ここまでに掲出したような歌が、”あえて”であることはわかっている。また、乾が指摘しているように、”こうでも言わない限り人は人の声に耳を傾けてくれない”という日本の現実的な問題があることもわかっている。わかってはいるのだが、わたしはどうしても生理的な噛み合わなさが自分の理性を上回ってしまう。また、こういうわかりやすい表現に頼らずとも人の心に響く歌は作れるし、頼らず作ることを諦めてはいけないとわたしは思ってしまうので、やはり、北山とはそりが合わない。

 直前に掲出した歌も、歌の出来についてのエクスキューズのように感じてしまい、わたしは肯定的に受け取ることができない。

本当に嫌いなものは何だろう吹雪の中で私を洗う

たくさんの菊たくさんの無視いつも八月十五日がこわかった

中卒の亡父をおもえり生臭き鯖缶のなかにある鯖の骨

 だから、わたしは北山の歌のなかでは、サービス意識の欠けた、さめた手触りのある歌のほうが好きだ。こういう歌のほうが、わたしには”ほんとうのこと”感が伝わる。一方で、こういう歌ばかりだったら北山がここまで注目されることはなかっただろうとも思うし、そう考えると、やはり歌人についてきっぱりとした評価を下すことは難しいことなのだなと感じる。

お豆腐はきらきら冷えて夜が明ける天皇陛下の夢の崖にも

 また、若手の歌人のなかで、現在の日本社会に対して明確にポジションをとっていることも評価できると思う。少なくとも、わたしはまだ自分の歌で「天皇陛下」という単語を使う勇気はない。こういう名詞も歌に織り交ぜ、肯定も批判も一手に受け入れようとする潔さには、好感が持てる。

 最後に気に入った歌を一首引用する。

お茶漬けをさらさら飲んでたましいを膨らませたり雨の真夜中

短歌の話(10/2) 

 ここのところ本を読みすぎてなんの本を読んだのか、まだ記事を書いていない本はどれかを忘れそうになっているので、備忘のため書き出します(太字はブログに書いたもの)。

〈歌集〉

土岐友浩『僕はいくよ』

永井祐『広い世界と2や8や7』

川野芽生『Lilith

我妻俊樹『カメラは光ることをやめて触った』

穂村弘『ラインマーカーズ』

魚村晋太郎『銀耳』

飯田有子『林檎貫通式』

奥田亡羊『男歌男』

永田和宏『午後の庭』

工藤吉生『世界で一番すばらしい俺』

大森静佳『てのひらを燃やす』

永井亘『空間における殺人の再現』

山崎聡子『てのひらの花火』

北山あさひ『崖にて』

正岡豊『四月の魚』

雪舟えま『たんぽるぽる』

木下龍也・鈴木晴香『荻窪メリーゴーランド』

〈句集〉

平岡直子『Ladies and』

暮田真名『ふりょの星』

 あと、これから読もうと思っている本も(これもメモにしないと絶対に忘れる)。

〈歌集〉

五島諭『緑の祠』

東直子『春原さんのリコーダー』『青卵』

山下翔『温泉』

魚村晋太郎『花柄』『バックヤード』

奥田亡羊 『亡羊』『花』

鈴木ちはね『予言』

榊原紘『悪友』『koro』

井上法子『永遠でないほうの火』

今橋愛『O脚の膝』

加藤治郎『Confusion』

吉田隼人『忘却のための試論』『霊体の蝶』

佐藤りえ『フラジャイル』

永田紅『いま2センチ』

花山周子『屋上の人屋上の鳥』『風とマルス

吉川宏志『青蝉』

穂村弘『シンジケート』

服部真里子『行け広野へと』『遠くの敵や硝子を』

〈その他〉

「短歌研究」2021年度塚本邦雄賞受賞号

短歌総合誌 薮内亮輔、飯田有子、山崎聡子の連作掲載号

詩集 平出隆『胡桃の戦意のために』