文藝春秋10月号(p81)に掲載の乾遥香の新作「ガールクラッシュ」(7首連作)を読んだ。
「ガールクラッシュ」とは、調べたところ「同性にも衝撃を与えるほど魅力的な女性」のことらしい。乾がこれまでつけてきた連作タイトルのなかでは女性性が強くあらわれている(「アンブロークン・ガール」とおなじぐらい?)。
前はもっとつんのめってたと言われてる前のわたしのその傾きよ/「毒のない花」
乾は過去にこんな歌を作っていて、「前は」というくらいだから、もうつんのめらなくなったのかと思いきや、この連作はかなりつんのめっている。7首中6首が初句字余りはなかなか見ない。印象に残った歌について、この記事では3首掲出します(ほんとうはすべて取り上げたいところなんですが雑誌を手に取る人がいなくなったらかえって迷惑になってしまうので…)。
二十代の自分についての説明を求められたら言う はっきりと
連作の最初に配置されている歌。一首目からかなりつんのめっている。求められている説明はかなり抽象的なのに、作中主体には「はっきりと」答える意志がある。
二十代の自分についての説明を求められる場面ってどんなときだ?と考える。知人からこんな質問はされないだろうし、ぱっと思いつくのは転職の面接とかだけど、それなら前職でのご経験は?とか聞かれる気がする。
そうなると、講演や対談…とかになってくるのだろうか。20代や30代のときに20代について聞かれるのは不自然なので、「自分がいつか短歌界で権威ある立場になったときに(50〜60代くらい?)」といった前提が初句のまえに隠されているのかもしれない。
ここでとるべきおしゃれな角度 傷つける才能有り余るわたしたち
連作中の4首目。情報量が少ないわりに思わせぶりで、どう解釈すればいいか戸惑った。
まず初句。この「べき」について、自分から発しているものなのか自分を取り巻く集団から発されているものなのか。どのような意図でわざわざ七音にしているのかもわからない。ただ、下の句で「傷つける」と客体をイメージした動詞があることから、後者で読んだほうがいいのか…?と思うものの、やはり断定はしづらい。
二句目。この「おしゃれな角度」は何に対しての角度なのか。ぱっと思いつくのはカメラだけど、カメラと読んでもつまらない。短歌界に対しての(自分のポーズ)と読んだほうがたぶん面白いので自分はそう読む。
下の句。短歌についての歌という(わたしの勝手な)前提にもとづいて読むと、「傷つける」の客体には、賞レースで争う人や、歌会でハラスメントをしてくる人などが想定できる。
以上を踏まえると、「今っぽいおしゃれな短歌をつくって馴れ合いながら短歌をやっていくこともできるけれど(そうさせてくる圧力もあるけれど)、わたしたちは覚悟をもって、ときには人を傷つけながら短歌界で生き残っていく」みたいなメッセージを読み取ることもできる…かも?
この日本がこんな日本じゃなかったら、きっとなりたい子のつく名前
連作の最後に配置されている歌。子のつく名前は皇族や上流階級で使われてきた歴史がある(皇族にかんしてはいまもか?)。
私だって天皇制にも戦争にも反対だけど、水原の歌の作り方を見ていると、思想が違うとしか言いようがない。こういう歌の作り方をする作者を礼讃することに私は反対する。私にとってはそれが天皇制に反対しているのとほとんど同じことだからだ。※「Je ne parle pas francais.」 「現代短歌」2023年9月号
「ただ一人だけの人の顔」として、私の歌から私の顔がちゃんと透けて見えてほしい。私の歌、私の声で聞こえろ!※「ぬばたま 第七号」
解釈にあたっては、短歌外での乾の発言がとっかかりになる。上記を踏まえると、「日本において、天皇制が残っている限り、子のつく名前になることは上流階級に与することになる(与しているととられかねない)。しかし、もし天皇制じゃなくなったら、きっと自分は子のつく名前になりたいと思うだろう」という風に解釈することができる…と思う。もっとも、天皇制がなくなったところで、乾は「わたし」が好きだから、名前を変えることはないだろう。
以上、3首読んできた。わたしが偏った読み方をしているというのもあるだろうが、それでも、乾の近作のなかでは社会的なメッセージが強く込められた一連だったように思う(Twitterでの乾の宣伝ツイートからも確実に意識はしていると思う)。今回取り上げなかった4首のなかにも面白い歌があるので(独特な脚韻の踏み方をしている歌があった)、ぜひ雑誌で残りの歌を読んでみてください。乾の作品については今後も継続して追いかける予定です。