安田茜を読む -『結晶質』-

雪山を裂いて列車がゆくようにわたしがわたしの王であること

 短歌を始めたばかりの頃に出会って、ずっとお守りみたいにしていた歌だった。この歌のおかげでわたしは去年を生き延びられたし、この歌のおかげで、わたしはわたしが短歌を通じてなにをやりたいのかを、気づくことができたと思っている。

 〈抒情〉は、否定性をきっかけとして起動する。現状を否定的に捉えるのでなければ、あたらしい言葉=作品は必要でない。 詩人はいつも苦難のなかで多くのものを否定し、まだ世界にない何かを書き始める。われわれを取り巻く否定性と、それをうつす感情を、ひとつの作品として結晶させようとする。

 すぐれた抒情詩は、世界を書き換え、すべての否定性を梃子に、一個だけの肯定をかたちにする。作品は、それらの否定性を内蔵しながら、同時に、作品として存在させられたことの、ただそこに詩としてあることの、強い肯定性を主張する。 ※青松輝「ふたたび戦うための7章」

 今回あらためて歌集を読み返していたときに、この文章のことを思い出した。ここで言われている叙情詩の定義は、『結晶質』という歌集の本質をそのままあらわしているように思う。

てざわりがサテンリボンのような日はベランダに出て地底をのぞく

お世話になっておりますと電話口で言うおおきな沼にほほえむように

忘れるためのわれさえもたずわれのなか鍾乳洞に立ちつくしたい

痛いほどおのれをひらく水仙を鬱のほとりにかざっておくれ

石英を朝のひかりがつらぬいていまかなしみがありふれてゆく

朝食はいつも摂らずにゆく道のきょうはどこにも花を見なくて

黒鍵を撫でてみたくて手袋をはずせばただのてのひらひとつ

席を立つことがつらなり日々になるビニール傘をいつも忘れて

東京は雪が降らないからだめねあっけなくあっけなく立っている

 この歌集を通じて浮かびあがってくる作中主体は、ほんとうに、頼りないと思う。"危なっかしい"、"情緒不安定"、"不健康"、"臆病"、"無気力"、そういう言葉ばかりメモに残っている。その点では、以前このブログで取り上げた『地上絵』と似ている気もする。どちらも、生きることに対する否定性が、歌集全体を通じて流れている。

表情でいいたいことはわかるから花のつるぎを手放しなさい

死者にくちなし生者に語ることばなしあなたに降りそそぐ雪もなし

みずからのみぎてとひだりてをつなぐこれがいちばんわかりやすい火

 ただ、安田は橋爪と比べて世界に対する潔癖感がより強い印象がある。これは、モチーフに対する過度な禁欲や、ひらがなの多用によって生まれる歌の透明感と細い佇まい、純白で硬質の造本からくるものだと思う。

吐き切ってあとは空気をおもいきり吸い込むだけの修羅をゆくのだ

あなたより私が必ず、先に死ぬ そう決めてからふれる金剛

 もっとも、否定だけで終わらないのがこの歌集のよさであり、安田の強さだと思う。王、修羅、金剛と、力強いモチーフを梃子にして、生きることにもう一度向かいなおす。わたしが短歌を通じてやりたいと思ったことも、まさにこういうことだった。

かなしいね人体模型とおそろいの場所に臓器をかかえて秋は

あやうさはひとをきれいにみせるから木漏れ日で穴だらけの腕だ

塩とアイスの共通項は賞味期限がないこと パーフェクト・フルコンボ

 余談だが、こういう不思議な歌があることも、歌集全体のなかでのアクセントとして機能しているように思う。わたしが通っていたNHKの短歌講座(講師は平岡直子)の第一回で『結晶質』が取り上げられたのだが、平岡が面白がったのもこういうところなのだと思う。