いたる所で同じ映画をやっているその東京でもういちど会う/「複数性について」
青松はいつも否定を背負っているし、いつも同じことを言っていると思う。
何かを書くこと自体がすでに間違いのはじまりであるにもかかわらず何かを書かないとどうしようもないと思える〈私〉の逡巡のなかに、僕の支持する短歌なるものがあるのではないかと、今のところ思う。※同人誌「のど笛」一首評より
いわゆる「学生短歌」の中に、自分がこれまで読者として向き合った、あるいは偏愛した短歌が沢山あることは事実だが、僕が今日「学生短歌」の場所で出会う短歌の多くは、(「学生短歌」だから、ではなく、ダメな短歌は殆どそうだが)、無自覚に他人の歌をパクり、よくあるポエジーを焼き直し、所与の倫理観をなぞることに躊躇いがない。
(中略)
「学生短歌」は僕の仮想敵としてある。狭いパクりのサイクルで作られた、欠伸の出そうな短歌たち。作者の所属は問題ではない。「良い短歌」をなぞって自分も「良い短歌」を作る、そういうマインドをあえて「学生的」と呼ぼう。僕はそこから出たい。 ※「ねむらない樹」vol.5 「doubleheader」より
この夏、僕は僕のために、わざわざ海へ向かい、フルーツやかき氷を食べるだろう。大した理由じゃない。はたから見れば単なるミーハーでしかない。でもそれは、単純に「夏」に転んだんじゃなくて、転んだふりをしていて、夢みたいな、夏の夢を見ている、それはポエジーのポエジー、オルタナティブのオルタナティブ、夢の夢。 ※アオマツブログ 「サマー(夢の夢の季節)」より
悲しい出来事に対して「どうせ世の中は変わらないもの」「(自分も含め)みんな偽善者」みたいなスタンスでいるのって、ぜったい自己矛盾を起こさないからレスバトルには強く見えるけど、論理的に正しいだけで世界にとってマジで意味がない ※ 2022年5月31日 午前7:49 ベテラン中学生のTwitter(現X)より
ここから出て、すべての敗北を知りながら、あなたと笑いあうことによってしか、僕は僕の100年を生きることができない。※青春ヘラver.4「エモいとは何か?」 「ふたたび戦うための7章」より
色々まとめて、「幸せ」という旗を掲げるのは大事だと思うようになった。つい最近、Twitterで「ベテランちはインターネットにおける冷笑文化が生み出した完成形」みたいなツイートをエゴサで見たけど、それは本当に違うと思っていて、冷笑的なものを一度、自分のからだで限界まで背負って、そこから反動を利用して自分自身や世界を肯定していく、というプロセスにずっと興味がある。※Aomatsu「2023の目標10こ」より
2020年から現在まで、青松はずっと同じことを言っている。同じことを何回も言うのは、それが短歌を前に進めるためにまちがいなく大事なことで、にもかかわらず、わたしたちがそれをいつまでたってもわかってくれていないからだろう。青松はダメなわたしたちにずっと寄り添ってくれていて、ずいぶん甲斐甲斐しい性格だなあなんて思ったりもする。
掲出歌は、歌集『4』冒頭の連作「複数性について」に収録されている一首である。この歌は歌集の帯にも書かれていて、『4』を目にしたことがある人なら全員が知っているはずの歌だ。
ガワだけ見るといたってシンプルである。東京ではどこでも同じ映画がやっていて、その東京で、もう一度誰かと会う。わかりにくい青松の歌のなかでは、比較的わかりやすい(わかった気になりやすい)歌だと思う。
字面どおりに受け取ってもいいのだが(解釈は人により自由だ)、わたしはこの歌には、もうすこし含意があると解釈する。
青松は以前「ベテランちのベテラジ!」で、歌集のテーマとして、①愛について、②短歌について、③人生が一回しかないことについて、の3つがあると語っていたと記憶している(どの回だったか忘れてしまい、もし覚えている方いたら教えてください…)。
わたしはこの歌は、②(ひいては③)の歌として読む。冒頭で掲出した、青松の各所での発言を短歌という形で結晶させたのが、掲出の歌なのではないかというのがわたしの推察である。
つまり、上の句の「いたる所で同じ映画をやっている」は、わたしたちがなにかを通じて得る感動が自分ひとりだけが感じていることではなく、みんなも感じていることだ、という、誰も認めたくはない事実を提示している部分であり、青松の背負っている否定性の象徴でもあるのだと思う。
そして、下の句の「その東京でもういちど会う」。これは、その認めたくはない事実をいったん受け止めたうえで、わたしたちは前進する必要がある、ということを宣言している部分なのだと思う。これは、青松が短歌を通じてずっと試みている、肯定性を獲得するためのプロセスの象徴、と捉えていいと思う。
要は、青松の短歌にたいするスタンスを象徴しているのが掲出歌で、そして、そんな重要な歌だから、何百首もある中から、この歌を帯に載せる歌として選んだのではないか、というのがわたしの読みだ。
この読みについては、たぶん結構オーソドックスで、すでに誰か書いていそうだな…と思ったものの、今のところ誰も書いている人が見受けられなかったので、評の土台づくりの意味も込めて念のためで書きました(もし既に書いている人がいたら横取りになってしまうので取り下げます)。
『4』について、Twitter(現X)上での反応をちょくちょく覗いているけれど、売れているわりにまだまだ評が少ないな…と勝手にさびしい気持ちになっている。青松は、明確に間違ったりしていない限り人の読みを否定するタイプではないので(たぶん)、もっといろんな人が読みを発信してくれると嬉しいなあと思います。
今でなくてもよいと思ったし、あなたでなくてもよいと思ったし、短歌でなくてもよいと思った。にもかかわらず、このように歌集はかたちを得て、今ここで、あなたに差しだされている。※『4』あとがきより
〈引用したWEBサイト〉