小島なお連作評 -『展開図』「流氷」「ペンキ」-

 先日、小島なおの第三歌集『展開図』を読み終えた。そのなかで、とりわけ印象的だった連作を2つ取り上げる。

「流氷」

 祖父との死別を描いた連作。

命終わる白いベッドに集まれる家族は古い帆船として

 古い帆船、という把握にどこかあたたかみを感じる。帆船は風をうけて進むが、風はどこからくる風か。

いくたびも外れてしまう呼吸器を祖父のちいさい顔に戻せり

 くるしむ祖父の様子がつたわってくる。ひとは死にちかづくと、しぼんでちいさくなっていってしまう。

いま祖父は流氷となり離れゆく見えなくなるまで見つめていたり

 表題歌。流氷はのったりとした速度で遠くへと向かっていく。見えなくなるまで見つめたのは、”そうしてあげたかったから”か。

身体ばかりがいつまでもあり 死はそこに死んだ者さえ置き去りにする

 死を擬人化して捉えている、と書こうとしたが、虫や獣として捉えている可能性もあるかもしれない。一首をとおして、魂だけを奪っていってしまった死へのひえびえとした憎しみや、やりきれなさがつたわってくる。

テーブルにLOFTの袋置かれあり黄色はこの世を生きる者の色

 連作の最後に配置されている歌。下の句から、それでも前を向こうとする主体の健気さが見えてくる。小島が過去につくった、

靴の白 自転車の銀 傘の赤 生なきものは鮮やかである/『乱反射』

という歌への意識も感じられる。視点はそのままに内容を進化させているところからも、前進しようとする意思が見えて、わたしは好きだ。

 

「ペンキ」

 精神が不調に陥っていた時期を描いた連作。

輪ゴム二本で束ねる葉書 感情の過剰にいつも負かされており

 葉書を縛る輪ゴムのピンと張り詰めたイメージが、感情の過剰という抽象的な表現に視覚的な具体性を付与している。小島の歌は、全体的に作中主体が抑制的な人格で描かれているため、感情の過剰に負かされる、というのがあまり想像できない(近作では変わってきている)。

思うことと口に出すこといつからかこんなに遠い 十月の楡

 大人に近づくにつれて、ひとに打ち明けず抱える悩みが増えていき、屈託なくなんでも話せる関係、というのが幻想だということに気づいてくる。十月の楡、ということはアキニレか。

 「眠れてますか」「はい」これまでもこれからも眠りはながく私を守る

 心療内科での医師とのやり取りだろう。「眠りは」という把握から、主体の孤独さがつたわってくる。七・七・五・七・七の律でも読めるが、わたしは七・二・五・十二・七の律で読む。 

潮風が壁のペンキを剥がしゆく 記憶はなにを奪うのだろう

 表題歌。ここでいう「記憶」は、前に配置されている連作の内容から、想い人とのものだと考えられる。「なにを奪うのだろう」と問いかけているものの、ほんとうは答えに気づいているという読みも可能性としてはあるだろうが、わたしはなんとなく、主体はほんとうに答えが分かっていないのではないかと読んだ。

方眼紙の網目の向こうおそ夏の渚が見えて治りはじめる

 連作の終盤に配置されている一首。もし文脈から切り離された状態でこの歌に出会っていたら、”方眼紙の網目の向こうに渚が見えた”という表現について、作為性を感じてちょっと鼻白んだかもしれない。掲出歌にいたるまでの文脈が、説得力をあたえてくれることで、ぎりぎり成功した表現のように思う。