短歌の話(8/28〜9/3)

今週末は、短歌研究のバックナンバーを読みすすめた。おもしろかった企画・連作についていくつか言及します。

 

座談会「現代短歌史と私たち」 「短歌研究」2021年11月号 

大森 (前略)自分で歌を作っているときの実感からして、口語で、特に新仮名の口語で怒りとか、ごつごつしたところ、一首の前に思索があるんじゃなくて一首の中で思索するようなことを、そういう苦しさみたいなのを出していくのは、すごく難しいということを最近感じているんです。 

 たしかになあ、と思った。口語短歌でストレートに怒りを詠んで、かつそれで成功している歌人ってほとんど見ない気がする。それこそ染野太朗ぐらい?(斉藤斎藤もいちおう当てはまりそうだけど、座談会でも言われているように、アイロニーに寄った表現をしているので、真正面から詠っているかというと疑問が残る)そう考えると、染野太朗って功績のわりにかなり過小に評価されている気がする。

 

短歌テトラスロン(4種競技)」1種目め=歌会 「短歌研究」2022年10月号

 自分がこの歌会の参加者だったら、2(特選)、3、8、11(並選)で票を入れたと思う。

2 触れるとき肌が返してくる問いの、ただひとつにも答えられない小島なお 作)

3 水鉄砲にほんの少しだけ残ってた水、わかる、わたしもそうだから(平岡直子 作)

8 頭のなかのかき氷屋にミニチュアの人が行列している、ずっと(平岡直子 作)

11 ゴキブリは色がうすいとこわくない 梅雨の玄関の靴のとなりに(永井祐 作)

 小島の歌は、肌っていうもののわからなさ・どうにもならなさがつるっとした質感で表現されていてよかった。

 平岡の歌は平岡の歌だってすぐにわかった。水鉄砲、かき氷屋、ミニチュアって名詞がすごく平岡っぽいとおもう。8は自分の頭のふだん使わない部分が刺激される感じがして、読んでいてたのしかった。

 永井の歌は、ゴキブリと梅雨っていう取り合わせがナイスポエムだな〜とおもって票を入れた。

 69ページ目にそれぞれの歌について、誰が誰に票を入れたかが書かれているんだけど、永井の歌に大森が票を入れていたり、その逆もあったりと、この人意外とこういう歌えらぶんだな〜というのが見られておもしろかったです。こういう有名歌人の歌会企画、読み方も学べるしそれぞれの価値観もわかるしで読みごたえあるのでまた開催されてほしい。

 

小島なお「前線のシュールレアリスム 「短歌研究」2022年11月号  「短歌テトラスロン(4種競技)」2種目め=評論

 戦時期に前線にいた歌人の歌にこそ、本来的なシュールレアリスムの精神が宿っているのではという仮説を起点に、戦地詠で知られる3人の歌人渡辺直己宮柊二、米川稔)の歌集を読み解いていくという内容。

 小島については短歌作品しか触れたことがなかったので、こういうかっちりとした評論も書ける人なんだ、という驚きがあった。引かれている歌が全体的に自分の好みで、堅い内容なのに読んでいてたのしかったです。渡辺の章で引かれている最後の3首がとくによかった。

 

平岡直子「野鳥図鑑」 「短歌研究」2023年4月号

まっしろでちいさくて毛がふかふかの男しかいない世界に生まれ

おまえの眼に小さく光る星がありよくないおいで剥がしてあげる

 平岡の歌はポエジー寄りで自分にはあまりピンとこないものが多いんだけど、この連作は琴線に触れた(あぶない雰囲気の歌が多かったから?)。

 一首目、結句の「生まれ」をどう解釈していいのか戸惑う。願望のニュアンスを読み取ってもいいけど、それではつまらない気もする。また、「ちいさくて」というのはどのくらいの大きさなのだろう。赤ん坊ぐらいの大きさ?手のひらにちょこんと乗るくらいの大きさ?ただ、けっきょく男がどんな見た目だったところで、いま生きている世界の男とおなじ習性をしているのだとしたら、その世界は女性にとって生きやすい世界ではないんじゃないかとも思う。

 二首目、「剥がしてあげる」の主語には魔女みたいな外見の女を、「おまえ」には5歳くらいの男の子を思い浮かべた。あおく塗られた爪が子どもの眼に食い込むような映像をイメージしてぞくっとする。剥がしてあげる、というのはなかなか暴力的な提案だけど、主体はあくまで善意でそれをやっているような気もする。だとすると「星」というのはなんなんだろう。なにかの暗喩と解釈してもいいけど、わざわざ漢字で「小さく」と書いているのがひっかかる。限りなく本物に近い星なのかも。