安田茜を読む -『結晶質』-

雪山を裂いて列車がゆくようにわたしがわたしの王であること

 短歌を始めたばかりの頃に出会って、ずっとお守りみたいにしていた歌だった。この歌のおかげでわたしは去年を生き延びられたし、この歌のおかげで、わたしはわたしが短歌を通じてなにをやりたいのかを、気づくことができたと思っている。

 〈抒情〉は、否定性をきっかけとして起動する。現状を否定的に捉えるのでなければ、あたらしい言葉=作品は必要でない。 詩人はいつも苦難のなかで多くのものを否定し、まだ世界にない何かを書き始める。われわれを取り巻く否定性と、それをうつす感情を、ひとつの作品として結晶させようとする。

 すぐれた抒情詩は、世界を書き換え、すべての否定性を梃子に、一個だけの肯定をかたちにする。作品は、それらの否定性を内蔵しながら、同時に、作品として存在させられたことの、ただそこに詩としてあることの、強い肯定性を主張する。 ※青松輝「ふたたび戦うための7章」

 今回あらためて歌集を読み返していたときに、この文章のことを思い出した。ここで言われている叙情詩の定義は、『結晶質』という歌集の本質をそのままあらわしているように思う。

てざわりがサテンリボンのような日はベランダに出て地底をのぞく

お世話になっておりますと電話口で言うおおきな沼にほほえむように

忘れるためのわれさえもたずわれのなか鍾乳洞に立ちつくしたい

痛いほどおのれをひらく水仙を鬱のほとりにかざっておくれ

石英を朝のひかりがつらぬいていまかなしみがありふれてゆく

朝食はいつも摂らずにゆく道のきょうはどこにも花を見なくて

黒鍵を撫でてみたくて手袋をはずせばただのてのひらひとつ

席を立つことがつらなり日々になるビニール傘をいつも忘れて

東京は雪が降らないからだめねあっけなくあっけなく立っている

 この歌集を通じて浮かびあがってくる作中主体は、ほんとうに、頼りないと思う。"危なっかしい"、"情緒不安定"、"不健康"、"臆病"、"無気力"、そういう言葉ばかりメモに残っている。その点では、以前このブログで取り上げた『地上絵』と似ている気もする。どちらも、生きることに対する否定性が、歌集全体を通じて流れている。

表情でいいたいことはわかるから花のつるぎを手放しなさい

死者にくちなし生者に語ることばなしあなたに降りそそぐ雪もなし

みずからのみぎてとひだりてをつなぐこれがいちばんわかりやすい火

 ただ、安田は橋爪と比べて世界に対する潔癖感がより強い印象がある。これは、モチーフに対する過度な禁欲や、ひらがなの多用によって生まれる歌の透明感と細い佇まい、純白で硬質の造本からくるものだと思う。

吐き切ってあとは空気をおもいきり吸い込むだけの修羅をゆくのだ

あなたより私が必ず、先に死ぬ そう決めてからふれる金剛

 もっとも、否定だけで終わらないのがこの歌集のよさであり、安田の強さだと思う。王、修羅、金剛と、力強いモチーフを梃子にして、生きることにもう一度向かいなおす。わたしが短歌を通じてやりたいと思ったことも、まさにこういうことだった。

かなしいね人体模型とおそろいの場所に臓器をかかえて秋は

あやうさはひとをきれいにみせるから木漏れ日で穴だらけの腕だ

塩とアイスの共通項は賞味期限がないこと パーフェクト・フルコンボ

 余談だが、こういう不思議な歌があることも、歌集全体のなかでのアクセントとして機能しているように思う。わたしが通っていたNHKの短歌講座(講師は平岡直子)の第一回で『結晶質』が取り上げられたのだが、平岡が面白がったのもこういうところなのだと思う。

川野芽生を読む -『Lilith』-

アヴァロンへアーサー王をいくたびも送る風あり千の叙事詩

 「現代短歌」No.86の「Anthology of 60 Tanka Poets born after 1990」でこの歌を見つけたときは衝撃だった。この歌に出会っていなかったら、たぶん『Lilith』を手に取るのはもっと先になっていたと思う。

harassとは猟犬をけしかける声 その鹿がつかれはてて死ぬまで

 「アヴァロンへ〜」の歌に出会う以前から、川野芽生という歌人について知ってはいった。自分も(おそらく大多数の歌人と同じように)掲出歌の人、という印象が強かった。『Lilith』についても、当時から興味を寄せていたものの、神話や伝説に関する基礎教養のなさから手に取るのを躊躇してしまい、「そのうち読む歌集」としてカテゴライズしてしまっていた。

 ただ、今回ようやく歌集について読み通してみて、知識のなさについてはそこまで心配する必要はなかったなと感じた。もちろん、他の歌集と比較して見慣れない単語は多く、かなり辞書頼りの読書になってしまったし、予備知識があったほうがより多彩な読みを歌から引き出せるのだとは思う。しかし、歌意についてざっくり把握するぐらいを一旦の目標とするのであれば、知識についてはそこまでなくても読み通すうえでは困らない印象だった。

朽ちた藤棚も取り壊される

はつなつのひかりの庭に手綱取るごとくに藤を刈り込むひとよ

春は花の磔にして木蓮は天へましろき杯を捧げつ

いつ自分がさうだと気づきましたか、と入国審査のやうに問われつ

 『Lilith』については、糾弾・告発の歌集だと評している人を見かける。自分もそれについて異論はない。しかし、それだけではこの歌集の魅力について、取りこぼすものが多いように思う。

ゆゑ知らぬかなしみに真夜起き出せば居間にて姉がラジオ聴きゐき

窓辺にて日焼けをしない手が剥いてゆく黄桃の皮の夕映え

中庭に冷やす噴水 iPhoneをほほにあてがひ来る修道士

 たとえば、掲出歌のようなゆったりとした日常詠のなかにも良い歌は多い。言及されているのをこれまでに見かけなかったぶん、自分はこちらのほうが印象に残った。当たり前のことだが、被害者は被害者という属性がすべてなのではない。告発や糾弾はその人が生活のなかで行っている膨大なアクションのうちの一部に過ぎず、それ以外はほかの多くのひとと変わらない日常を送っている。掲出したような歌を読んで、そのことを改めて認識させられた。

夕かげは紅茶を注ぐやうに来て角砂糖なるわれのくづるる

人よりも傘はもろきをきりぎりに気流みだるる空に差し出づ

百日紅うごめきやまず こぼれては赤竜として甃に灼けゆく

丘の上に老天使翼ひろげゐてさくら、とひとはそを指さしぬ

怯えやすい小動物に似た街に指で圧すごと日没が来る

 また、このような叙景の歌にも、優れたものは多い。こういう手堅い歌もつくれるところに、川野の歌人としての地力の強さがあらわれているように思う。

無性愛者のひとはやつぱりつめたい、とあなたもいつか言ふな だありや

植物になるならなにに? ばらが好きだけど咲くのは苦しさうだな

ひとりにして、すこしかんがへさせてつて告げそれきりの友人たちよ

 今回歌集を読んで印象に残った連作のひとつに歌集終盤の「植物園」という連作がある。これは、(おそらく)知人に無性愛者であることを明かした前後を描いているのだが、ほかの連作にはない、自嘲を帯びた歌が複数収められており、こういう歌も作るのかと驚いた(旧仮名のせいか岡井や藪内を連想させる)。

 最後に、論から取りこぼしてしまったものの気に入った歌を三首。

裸木を冠となすこの冬も王位を追はるるやうに過ぎゆく

天球儀ほどの重さの頭をかかへ人が死なない日の昼下がり

傷むほどに透度をあげてゆく髪を曳きつつゆけり春の高台

永井亘を読む -『空間における殺人の再現』-

メリーゴーランドは破綻した馬を雇い不自然だがどこか微笑ましい

数はどんな数でも数え 飛行機と砂漠は夏を偶然にする

この海が紅茶に沈みこの舟も角砂糖のように溶けるから海だ

錆びついた翼を嫌う天使たち歴史のように海まで歩く

見える手を見えない手まで伸ばしつつベランダ夜の部屋遠くなる

気高さが望み通りの靴になりあなたにしては大切な翳り

そういえば何も知らない たくさんの柱にすぎない街を歩いた

終わらない光のなかでどれほどの驟雨を浴びた太陽だろう

ある晴れた午後にフランスパンを買う 川の向こうを覚えていたら

夏はまもなく雲であふれて滑らかに人の姿を記述していく

 気に入った歌を10首引いてみる。どの歌も、歌から立ち上がるイメージがきれいだと思う。とくに気に入っているのは4首目。「歴史のように」という直喩も、それを「歩く」という動詞に接続していることも挑戦的だと思う。掲出した歌について、「現代短歌」のNo.97に掲載されている永井亘の自選10首と見比べてみたところ、被っていた歌はひとつもなかった。

 ビジュアル面での主張の強さやとっつきにくそうな歌集名から、半年以上読まず嫌いを続けていた。ようやく読んでみた感想としては、思ったより悪くはなかったし、読まないよりは間違いなく読んでおいてよかった。

 事前の予想と、歌の雰囲気がかなりかけ離れていた。(装丁やタイトルが原因だが)英語やら数字やらが多用された小難しい歌が多いんだろうなあ…という先入観を持ってこの歌集を手に取ったのだが、そういう歌はまったくと言っていいほどない。作中主体の感情について掴みきれない歌は多いものの、強烈に突き放されている感じもせず、歌の雰囲気としては堂園昌彦とかが近い気がする。永井のほうが使用されている名詞の抽象度が高く、もう少し淡白ではあるのだが…。

 タイトルや歌で使用されている単語を見るに、個々の連作について、おそらく何らかの筋書きに沿って歌が配置されているのだろうが、わたしはそれを汲み取ることができなかった。とはいえ、一首単位で読んでも十分に楽しむことができる歌集だったように思う。

 引っかかった点を書いておくと、少なくともわたしは、この歌の内容でこの造本にする意義をあまり感じることができなかった。

 前述した号数の「現代短歌」において、なぜこのような凝った作りの歌集にしたのかについて永井自身の口から語られており、本人なりの必然性は一応あるようだったのだが、わたしはあまり共感ができなかった(べつにそこまで読み手を選ぶ歌なわけでもないのに、変に敷居を上げてしまっている気がする)。

とにかく歌集が自分だけで閉塞してしまうのが嫌で、他者の記述や落書きがあってもいいんじゃないかと思ってました。作者にとっても、スクラップブックやノートブックであってほしい。寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』じゃないですけれど、読者だったりが歌集というノートを持って町に出る。すでに書き込まれていることに加えて、さらに自分でも記述していく。

 これを読んでも、いや歌集ってそういうもんじゃん…?と思ってしまうし、自分の歌に自信があればあるほど、テキスト以外の情報は遮断して歌を読んでもらいたいと思うタイプなので、どちらが良いとか悪いとかではなく、思想の違いとしか言いようがない。

我妻俊樹を読む -『カメラは光ることをやめて触った』-

水を飲むのは投函だから物音をおぼえきれないほど聞き取った

どの人生もCMだろう空蝉の背に吸われゆく小さなジングル

車の屋根を歩いて海へ出るような世界の果ての秋の渋滞

ぬいぐるみ自撮りアイコン大量凍結 新目白通りの事故車両

メーターの針はくすぐるだけなのに血を流すなんてみんなの馬鹿

だけど真昼に黒い川いくつも渡るなつかしさ気はたしかだろうか

二階から呼ぶ声がする友だちが読み終えた本を落としてくれる

遊んでよ大きな駅が見えるから安心して開けられる窓

目が光る着ぐるみを着て踊ったらみんなの思い出に残るかな

とれたての夏みかんかもしれないよ電話がひとつしかない世界

 気に入った歌を10首引いてみた。掲出歌を含む我妻の歌を読んで改めて思ったのは、わたしは意味の通る歌のほうが好きだということだ。意味の通らない歌は、歯応えにおいて、わたしのなかでどうしても意味の通る歌を超えてこない。

 少し前までは、こういう意味の通らない歌に対してかなりヒステリックな反応をしていたのだが※1、最近はそういうリアクションをすることもなくなってきた。たぶん、わからなければわからないなりに楽しめばいいとゆるく構えられるようになったからだと思う。

 とはいえ、我妻の歌は、他の左翼的なスタンスの歌人の歌と比較して受け入れやすかった。使用する語や文体に対して禁欲的なことが大きかったように思う※2

ジェット機が雲生むまひる愛のかわりに潜水で股間をくぐれ

「童貞に抜かせちゃ駄目よシャンパンの栓がシャンデリアを撃ち落とす」

穂村弘『ドライドライアイス

亜米利加は雨に吸われる双子の冠、減速していく与謝野晶子のストライプ

あたらしい墓のようなそのビールを飲み干して時間は女身の川端康成

※瀬戸夏子「星室庁」

ふわふわを、つかんだことのかなしみの あれはおそらくしあわせでした

ばらばらで好きなものばかりありすぎてああいっそぜんぶのみこんでしまいたい

※笹井宏之『ひとさらい』

「お墓って石のことだと思ってた?穴だよ、穴」洗濯機をのぞきこむ

性欲の話に笑う/肉眼で見えない星の気配のようだ  

※平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

美しさのことを言えって冬の日の輝く針を差し出している

夕暮れに黒い電車が移動する寂しい限りの力を持って

※堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

反省会で反省点を述べている 朝自分で選んだ服を着て

遠くから見ると四角い建物であなたが待っている そこに行く

佐クマサトシ『標準時』

愛のWAVE 光のFAKE どうしよう、とりあえず、生きていてもらってもいいですか?

Things Go Better With Coke. 埋没の二重瞼を見せてもらった

※青松輝『4』

クリスマス・ソングが好きだ クリスマス・ソングが好きだというのは嘘だ

佐クマサトシ『標準時』

コンタクト・レンズ あなたは複数の星のことを〈星たち〉と呼んだ

※青松輝『4』

 我妻の歌には、下ネタも、独特な固有名詞も※3、文字記号も、オノマトペも、ズレた用法の形容詞も、客体化も、英語も、流行りのチャラいナカグロもまったくと言っていいほど登場しない。意味の通らない歌しか我妻にはないが、意味の通らない以外の目立った特徴がない。そして、そのことがかえって我妻の特徴になっている。

 推測でしかないが、我妻は、読み手に短歌を楽しんでもらうにあたって、極力不要なノイズはカットしたいタイプなのだと思う。だから、表紙を白でも黒でもない地味なグレーにし、紙の手触りや歌の配置、フォントも標準的なものを選択しているのではないだろうか。竹を割ったような性格、という表現があるが、今回歌集を読んでみて、わたしが我妻に対して抱いた印象はそんな感じだ。

 

〈補足〉

※1 先日公開された雷獣チャンネルの動画で、かべが青松の『4』に対して、”攻めているという逃げ”をしていると評していたが、自分もまさにそんな感じのことを意味の通らない歌に対しては思っていた。

※2 『カメラは光ることをやめて触った』には、『カメラは光ることをやめて触った』と、同人誌「率」上に掲載された『足の踏み場、象の踏み場』の2つの歌集が収められている。2つは製作時期に隔たりがあり、作風も大きく異なることから、まとめて論じるのが難しく、本記事は前者のみを読みの対象にしている。

※3 例外的に、掲出歌の「新目白通り」のような、場所に関する固有名詞は頻出する。

橋爪志保を読む -『地上絵』-

 歌集の特徴を把握するうえでのとっかかりにするため、最近は、歌集を読んでいる際に感じたことをその都度メモに残すようにしている。『地上絵』を読んだときのメモを見返すと、不健康、不穏、不気味、不器用と不のつく言葉が目立つ。装画はずいぶん可愛らしい歌集だが、なぜそのような印象を受けたのか。自分なりに分析してみる。

ヨドバシの前のみじかいエスカレーターかわいいな 忘れてしまう 

振る腕が痛めばときどきひだりみぎ変えながら聴くライブだったね 

湯たんぽの実演販売中です、と湯たんぽがただおいてあるだけ 

栗だけをほじって食べたあとに残るごはんの色のように笑ってよ 

生理痛をこらえるのにはちょうどいい眺めのネットカフェの天井 

 ひとつには、奔放なカメラワークがあるだろう。『地上絵』は口語でフラットに日常を詠んだ歌が多くを占める。とくに、掲出したような歌は生活にある些細な襞を見逃さない感性がなければ、どれも作れない歌のように思う。

坂道の降りきるまでをつなぐ手でたとえば星も燃やせないこと 

きみの手がつめたいつまりきみの飼う鳥もつめたい星の下だろう 

わたしからきみのこどもがうまれないことも星座のようにうれしい 

 ただ、そのような日常詠のなかに、いきなりこのようなスケールの大きい歌が差し込まれてくる。作中主体を取り巻く生活を映していたカメラが、急にズームアウトして地球や宇宙を映してくるのだ。そして、そうかと思えば、次の歌では再び日常の場面に切り替わったりする。とにかく読み手が振り回されるのである。

パンパカパンは何が開いているんだろう、パカのときに。 朝ちょっとだけ泣く 

今週はきみに誕生日おめでとうを言うのが流行っていてワンダホー 

ここへ来て一緒に濡れてほしいのにあなたは傘をたくさんくれる 

学校をきらいなひとが好きだけど学校に来ないから会えない 

 また、作中主体の情緒の不安定さも要因の一つだろう。『地上絵』には、掲出した1、2首目のようなユーモラスな歌や、3、4首目のような読者の共感を誘う歌もしばしば見られる。こうした歌によって、ちいさなアクセントのある日常が続いていく。

速すぎてみえない換気扇の羽むりやり止めてぎゅっとキスした 

加湿器の横でセックスしたあとに見に行った海 二度うなずいた 

昼間見たちいさな火事を話しつつ眠りの際に指をつないだ 

父さんが忘れていった日時計を母さんは洞になって見ている 

台風の朝にこどもを見失うわたしのこどもかもしれないね 

 一方で、掲出の1〜3首目のようなぎょっとするほど湿度の高い恋愛・性愛を詠んだ歌や、4〜5首目のようなこわい歌がとつぜん差し込まれてくる。日常詠の多さで油断しているせいか、余計にインパクトが強い。このような展開の読めなさも、前述した印象に繋がっているように思う。

こんにちはだけが人生。こんにちは! 泳げるくらい雨降っている 

ビルをつくるひとはやる気があるんだなあ 悲しい時はジャンプしてみる 

明け方にきみが小さくする咳の 狂えばかなしみもなくなるの? 

 さらに、『地上絵』の特徴として、一字空けの歌の多さと、そのなかでの大胆な詩的飛躍が挙げられるだろう。1字空けについて、ちゃんと数えてはいないが、おそらく半分以上のページで最低1回は使われている。そして、その一字空けの歌について、どれも、掲出歌のようにめちゃくちゃな飛躍をしているものが多い。予定調和を避ける、というのは作歌のうえでの基本姿勢であり、そういう意味では常套的な手法と言えるのかもしれないが、橋爪のそれはテクニックで片付けられるレベルを逸している気がする。前後の繋がりについて、読者に理解されることをはなから放棄している印象があるのだ。

 このように、『地上絵』は口語によるフラットな日常詠を中心にしながら、上記のような手法が取り入れられることによって歌集全体に緩急が生まれている。既存の歌人の誰に似ているかと問われても返答に窮するところがあり、平岡直子の奇想性、永井祐の平坦さ、山崎聡子の湿っぽさ、初谷むいのピュアさを足して4で割ったような感じ…だろうか?とにかくごちゃまぜな印象だ。しかし、そのごちゃまぜさが歌集を通じて一貫しているため、逆に統一感が生まれているというおかしなことになっている。わたしがこれまでに読んだなかでも、かなり異質な歌集だったと思う。

 最後に、論のなかでは取りこぼしてしまったものの、気に入っている歌をいくつか引用する。

かみなりのように壊れたブランコがあったはずあの空き地にむかし 

世界から逃げれば世界が増えてゆく自業自得を愛しています 

真っ白な商店街を歩くよう抱かれたままに目をとじるとき 

 

〈これから『地上絵』を読むひとへ〉

この記事では、3つの観点で分析しましたが、一人称の不安定性とか、具体⇔抽象のはげしい往来とか、そのあたりも全体の印象に関わっているのかなあと思いました。読み解きがいのある歌集だと思うので、まだ読まれていない方はぜひお手にとってみてください。

山崎聡子を読む -『てのひらの花火』『青い舌』-

 先日、山崎聡子の既刊歌集『てのひらの花火』『青い舌』の両方を読み終えた。第一歌集から第二歌集にかけて、とても正統な進化を遂げた歌人だと感じた。

絵の具くさい友のあたまを抱くときにわたしにもっとも遠いよ死後は/『てのひらの花火』

クレヨンに似た匂いする髪の毛をわたしももっていたのよ、真昼/『青い舌』

忠魂碑 きれいな釦つけたシャツ着てはほほ笑む戦死者のこと/『てのひらの花火』

青い舌みせあいわらう八月の夜コンビニの前 ダイアナ忌/『青い舌』

喉鳴らすような地声の母親がぼろんぼろんとこぼす線香/『てのひらの花火』

夢にみる母は若くてキッチンにバージニアスリムの煙がにおう/『青い舌』

電車って燃えつきながら走るから見送るだけで今日はいいんだ/『てのひらの花火』

尻尾にガスの匂いをさせる夕闇のバス、わたしたち、のまれてしまう/『青い舌』

粉乳のにおいを肌にまといつつ誰かの父となる人のこと/『てのひらの花火』

父親の顔したひとを見ていたら次はあなたに産まれてしまう/『青い舌』

 近似する歌をそれぞれ五首引いてみる。『青い舌』のほうが湿度があって、歌としての強度が増しているように思う。比較的若手で、既に数冊歌集を出している女性の歌人だと、山崎の他には小島なおや大森静佳が思い浮かぶが、小島や大森がモチーフの選定や文体でいろいろ冒険しているのに対して、山崎は自分の美質を掘り下げることに専念している印象を受けた。

 しかし、気になることがある。『青い舌』は2022年に塚本邦雄賞を受賞していて、その年の「短歌研究」の10月号には、自選三十首と選考委員(北村薫、坂井修一、穂村弘水原紫苑)による選評が載っているのだが、選考委員が評中で取り上げている歌には納得ができるものの、山崎が自選で引いている歌にどうも納得がいかない。

 山崎の強みについて、わたしは、名詞が有する五感の喚起力だと思っているのだが、自選の三十首には、それがじゅうぶん発揮されている歌があまり取られていないように感じた(どの歌が選ばれているかは、当該号数の短歌研究を確認してみてほしい)。

うさぎ当番の夢をみていた血の匂いが水の匂いに流されるまで

牡蠣食べて震える舌よどこまでも私が生きるこの生のこと

雲梯をにぎって鉄の味がする両手をあなたの肩にまわした

墨汁が匂う日暮れのただなかのわたしが死ねと言われてた道

水は苦しい光なんだよきれいだね 笑う温度計の白熊

夕立ちに子どものあたま濡れさせて役に立たない手のひらだった

淋しさを水に例えていうことの、子供をもっていることの、舟

縄跳びに入れないままおしっこで湿る体を携えていた

この世から繋ぎとめられてる気がしてた風吹き荒れる屋上広場

逆光のなかに立たせた母親を許す冷たい真夜のふとんで

 わたしが選ぶべきだと思ったのはたとえばこういう歌で、この十首は「短歌研究」に自選三十首を載せるにあたって”落とされた”歌だが、見比べてみてどうも納得がいかない。連作「赤い眼をして生きてきて」の歌がほとんど採られていないことも不満だった。

 おなじようなことは、第一歌集の刊行時点でも起きている。『手のひらの花火』では、山崎が短歌研究新人賞で受賞したときの「死と放埒なきみの目と」が掲載されているのだが、あらためて歌集に掲載するにあたって、受賞作のときには載っていた歌が5首ほど落とされている。そのうちの一つに、

罪深いおしゃべりばかり溢れだす、カローラ、義兄の白いカローラ

があるのだが、これを落としたのも、わたしはちょっと信じられない思いだった。

 ともあれ、山崎について、わたしが比較的若手の歌人のなかで期待を寄せている一人であることは間違いなく、とくに、『てのひらの花火』に収録の連作「卵とカルピス」や「グロリア」を読んで、詞書のある連作にもっと挑戦してみてはと思った。集中に掲載されている短編?の「夏のできごと」もよく、小説の才能があるのではとさえ思う。

 最後に、『青い舌』のなかから気にいっている歌を三首引用する。

どうしてこの人に似てるんだろう夜の手前で暗さが止まって見えてた日暮れ

「あなたには何もないの」と言うときの目でアイシテル、母、アイシテル

わたしはあなたにならない意思のなかにある淋しさに火という火をくべる

青松輝一首評 -歌集『4』帯の歌-

いたる所で同じ映画をやっているその東京でもういちど会う/「複数性について」

  青松はいつも否定を背負っているし、いつも同じことを言っていると思う。

何かを書くこと自体がすでに間違いのはじまりであるにもかかわらず何かを書かないとどうしようもないと思える〈私〉の逡巡のなかに、僕の支持する短歌なるものがあるのではないかと、今のところ思う。※同人誌「のど笛」一首評より

いわゆる「学生短歌」の中に、自分がこれまで読者として向き合った、あるいは偏愛した短歌が沢山あることは事実だが、僕が今日「学生短歌」の場所で出会う短歌の多くは、(「学生短歌」だから、ではなく、ダメな短歌は殆どそうだが)、無自覚に他人の歌をパクり、よくあるポエジーを焼き直し、所与の倫理観をなぞることに躊躇いがない。

(中略)

「学生短歌」は僕の仮想敵としてある。狭いパクりのサイクルで作られた、欠伸の出そうな短歌たち。作者の所属は問題ではない。「良い短歌」をなぞって自分も「良い短歌」を作る、そういうマインドをあえて「学生的」と呼ぼう。僕はそこから出たい。 ※「ねむらない樹」vol.5 「doubleheader」より

この夏、僕は僕のために、わざわざ海へ向かい、フルーツやかき氷を食べるだろう。大した理由じゃない。はたから見れば単なるミーハーでしかない。でもそれは、単純に「夏」に転んだんじゃなくて、転んだふりをしていて、夢みたいな、夏の夢を見ている、それはポエジーのポエジーオルタナティブオルタナティブ、夢の夢。 ※アオマツブログ 「サマー(夢の夢の季節)」より

悲しい出来事に対して「どうせ世の中は変わらないもの」「(自分も含め)みんな偽善者」みたいなスタンスでいるのって、ぜったい自己矛盾を起こさないからレスバトルには強く見えるけど、論理的に正しいだけで世界にとってマジで意味がない  ※ 2022年5月31日 午前7:49 ベテラン中学生のTwitter(現X)より 

ここから出て、すべての敗北を知りながら、あなたと笑いあうことによってしか、僕は僕の100年を生きることができない。※青春ヘラver.4「エモいとは何か?」 「ふたたび戦うための7章」より

色々まとめて、「幸せ」という旗を掲げるのは大事だと思うようになった。つい最近、Twitterで「ベテランちはインターネットにおける冷笑文化が生み出した完成形」みたいなツイートをエゴサで見たけど、それは本当に違うと思っていて、冷笑的なものを一度、自分のからだで限界まで背負って、そこから反動を利用して自分自身や世界を肯定していく、というプロセスにずっと興味がある。※Aomatsu「2023の目標10こ」より

 2020年から現在まで、青松はずっと同じことを言っている。同じことを何回も言うのは、それが短歌を前に進めるためにまちがいなく大事なことで、にもかかわらず、わたしたちがそれをいつまでたってもわかってくれていないからだろう。青松はダメなわたしたちにずっと寄り添ってくれていて、ずいぶん甲斐甲斐しい性格だなあなんて思ったりもする。

 掲出歌は、歌集『4』冒頭の連作「複数性について」に収録されている一首である。この歌は歌集の帯にも書かれていて、『4』を目にしたことがある人なら全員が知っているはずの歌だ。

 ガワだけ見るといたってシンプルである。東京ではどこでも同じ映画がやっていて、その東京で、もう一度誰かと会う。わかりにくい青松の歌のなかでは、比較的わかりやすい(わかった気になりやすい)歌だと思う。

 字面どおりに受け取ってもいいのだが(解釈は人により自由だ)、わたしはこの歌には、もうすこし含意があると解釈する。

 青松は以前「ベテランちのベテラジ!」で、歌集のテーマとして、①愛について、②短歌について、③人生が一回しかないことについて、の3つがあると語っていたと記憶している(どの回だったか忘れてしまい、もし覚えている方いたら教えてください…)。

 わたしはこの歌は、②(ひいては③)の歌として読む。冒頭で掲出した、青松の各所での発言を短歌という形で結晶させたのが、掲出の歌なのではないかというのがわたしの推察である。  

 つまり、上の句の「いたる所で同じ映画をやっている」は、わたしたちがなにかを通じて得る感動が自分ひとりだけが感じていることではなく、みんなも感じていることだ、という、誰も認めたくはない事実を提示している部分であり、青松の背負っている否定性の象徴でもあるのだと思う。

 そして、下の句の「その東京でもういちど会う」。これは、その認めたくはない事実をいったん受け止めたうえで、わたしたちは前進する必要がある、ということを宣言している部分なのだと思う。これは、青松が短歌を通じてずっと試みている、肯定性を獲得するためのプロセスの象徴、と捉えていいと思う。

 要は、青松の短歌にたいするスタンスを象徴しているのが掲出歌で、そして、そんな重要な歌だから、何百首もある中から、この歌を帯に載せる歌として選んだのではないか、というのがわたしの読みだ。

 この読みについては、たぶん結構オーソドックスで、すでに誰か書いていそうだな…と思ったものの、今のところ誰も書いている人が見受けられなかったので、評の土台づくりの意味も込めて念のためで書きました(もし既に書いている人がいたら横取りになってしまうので取り下げます)。

 『4』について、Twitter(現X)上での反応をちょくちょく覗いているけれど、売れているわりにまだまだ評が少ないな…と勝手にさびしい気持ちになっている。青松は、明確に間違ったりしていない限り人の読みを否定するタイプではないので(たぶん)、もっといろんな人が読みを発信してくれると嬉しいなあと思います。

今でなくてもよいと思ったし、あなたでなくてもよいと思ったし、短歌でなくてもよいと思った。にもかかわらず、このように歌集はかたちを得て、今ここで、あなたに差しだされている。※『4』あとがきより

 

 

〈引用したWEBサイト〉

サマー(夢の夢の季節) - アオマツブログ

ベテラン中学生 on X: "悲しい出来事に対して「どうせ世の中は変わらないもの」「(自分も含め)みんな偽善者」みたいなスタンスでいるのって、ぜったい自己矛盾を起こさないからレスバトルには強く見えるけど、論理的に正しいだけで世界にとってマジで意味がない" / X

2023の目標10こ|Aomatsu