北山あさひを読む -『崖にて』-

 今クールから再び放送されている呪術廻戦を見ているのだが、五条役の中村悠一の芝居がどうも鼻につく。音響監督のディレクションなのかわからないが、こういうのが好きなんだろ的な視聴者への目配せを感じて、うっ…とキツくなってしまう。

残高の十八円がほんとうの友達だから泣かずに帰る

がんばったところで誰も見ていない日本の北で窓開けている

恋人が兵隊になり兵隊が神様になる ニッポンはギャグ

 『崖にて』の歌も、同じような、見ている側への目配せを感じてしまい、わたしは苦手だ。こういう歌を、言ってやったぞと言わんばかりに読ませてくる北山も、よく言ってくれたと思いながら読んでいるだろう北山の読者も、わたしは得意ではない。

あの赤いプラダの財布よかったな買おうかな働いて働いて

あめかぜに髪を舞わせて納税す私の武器は私のこころ

午前二時の鏡の中の乳首二つもうやめるんだ ハワイ行きたい

 望む望まないに関わらず、『崖にて』を読んでいると、読者は北山あさひという一人の顔を思い浮かべざるを得ない。だから、瀬戸夏子とか青松輝とか、アンチ私性の歌人が北山の歌を褒めているのを見ると、かなり不思議な気持ちになる。

星ひとつぶ口内炎のように燃ゆ〈生きづらさ〉などふつうのテーマ

 記号的な弱者性を自分に課さなくても現状や構造は批判できる。一方で、当事者からの声が最も切実に心に響くという事実とも、読者は向き合わなければならない。もしかして北山にこう言わせているのは私なのか。 ※「北・山」

 もちろん、ここまでに掲出したような歌が、”あえて”であることはわかっている。また、乾が指摘しているように、”こうでも言わない限り人は人の声に耳を傾けてくれない”という日本の現実的な問題があることもわかっている。わかってはいるのだが、わたしはどうしても生理的な噛み合わなさが自分の理性を上回ってしまう。また、こういうわかりやすい表現に頼らずとも人の心に響く歌は作れるし、頼らず作ることを諦めてはいけないとわたしは思ってしまうので、やはり、北山とはそりが合わない。

 直前に掲出した歌も、歌の出来についてのエクスキューズのように感じてしまい、わたしは肯定的に受け取ることができない。

本当に嫌いなものは何だろう吹雪の中で私を洗う

たくさんの菊たくさんの無視いつも八月十五日がこわかった

中卒の亡父をおもえり生臭き鯖缶のなかにある鯖の骨

 だから、わたしは北山の歌のなかでは、サービス意識の欠けた、さめた手触りのある歌のほうが好きだ。こういう歌のほうが、わたしには”ほんとうのこと”感が伝わる。一方で、こういう歌ばかりだったら北山がここまで注目されることはなかっただろうとも思うし、そう考えると、やはり歌人についてきっぱりとした評価を下すことは難しいことなのだなと感じる。

お豆腐はきらきら冷えて夜が明ける天皇陛下の夢の崖にも

 また、若手の歌人のなかで、現在の日本社会に対して明確にポジションをとっていることも評価できると思う。少なくとも、わたしはまだ自分の歌で「天皇陛下」という単語を使う勇気はない。こういう名詞も歌に織り交ぜ、肯定も批判も一手に受け入れようとする潔さには、好感が持てる。

 最後に気に入った歌を一首引用する。

お茶漬けをさらさら飲んでたましいを膨らませたり雨の真夜中