乾遥香歌人評 -ひとりの輪郭-

 乾は女で、フェミニストだ。しかし乾は、フェミニズムを明確に押し出した短歌をあまりつくらない※1。つくらないこと、それ自体はなんの問題もない。ある事柄について抱えている問題意識を、短歌という形で出力するかしないかは個人の自由であり、また、短歌として出力しなかったからといって、それが本人にとって切実な問題でないということにもならない。 

戦うことが大切だと思う。

考えることが、戦うことだと思う。

私はね。※「10月生まれ」あとがき 

 タイトルがね、掛詞の連作とかもあったでしょう。タイトルにストレートにテーマを書かないことが、たとえばわたしが何か連作をつくるときに、選挙についてとか、日本について、フェミニズムについて、みたいなタイトルで連作を発表することも可能なのにそうしない、そうしてないんだけど。そうしないことが、遅効性の毒、みたいなものを目指して、自分の利益のためにまずは隠すっていうことならわたしもするけど、まず隠すことが自分と分かりあう気がない人の、自分と分かりあおうっていう気持ちが足りない人への親切になるのは駄目じゃない?っていうか本意じゃないんだよね。※Radiotalk『乾遥香の短歌の話「短歌のネットプリントと1stdemo歌集についての告知2022.06.22」』 14:00〜

 しかし、掲出したような短歌外での乾の発言を読むと、乾は、どうも本人の認識では、短歌のなかにフェミニズムを忍ばせているようなのだ。しかしわたしは、乾の短歌の、”どこ”に”どう”フェミニズムが忍ばされているのか、ずっとわからなかった。

本気のわたしの本気はあなたに見えなくてわたしの座っている夏の床/「永遠考」

くちびるをコンシーラーで塗りつぶしわたしの好きにしていいわたし/「わたしのわたし」

この部屋でわたしのペンを借りてなお友達は生む友達の字を/「ありとあらゆる」

飛ばされた帽子を帽子を飛ばされた人とわたしで追いかけました/「夢のあとさき」

わたしのためにわたしは喋ったほうがいい薄い珈琲かき混ぜながら/「ROSY2021」

午前五時わたしが放ったかのようにわたしから飛び立っていく鳩/「毒のない花」

本物はわたしだけではないけれどわたしは本物のわたしなの/「ドキン」

 乾の短歌の特徴を、同語反復、自己の客体化だと言って、異論を挟む人はいないと思う。わたしわたしと言いまくる乾の短歌は、同業者の目から見てもかなり異質に映る。最近はこのような歌を見かけることも珍しくはないが、やはり、乾のように、キャリアの長期にわたって、一本槍的に続けている歌人はほかにいないだろう。

 前述の、同語反復、自己の客体化について、先日、別の言葉にも言い換えられることに気づいた。すなわち、「法律化」「英語化」だ。

〔個人の尊重と公共の福祉〕

十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

〔平等原則、貴族制度の否認及び栄典の限界〕

第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 法律ではしつこいくらいに、主語、述語、目的語を明記する。前の条文と主語が同じであっても、省略せず同じ主語が記述される。読んだ人によって解釈にブレの生じることがあってはならないからだ。

(原文)I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: "We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal."

(日本語訳)私には夢がある。それは、いつの日か、この国が立ち上がり、「すべての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である。

 また、英語も、言い換えこそ行うものの、主語は明確なことがほとんどだ。わたしは大学時代に英語で論文を執筆したことがあったのだが、その際に指導教員から、受動態が多い、無生物主語を使いなさいと何度もつつかれた。調べたところ、日本語が自動詞、結果に重きを置く言語であるのに対して、英語は他動詞、原因に重きを置く言語だからだというのが理由のひとつのようだ。

 ここまでを通じて、乾の短歌が、同語反復、自己の客体化を特徴とし、また、それが「法律化」「英語化」とも取れるということについては納得してもらえたと思う。

 しかし、考えてみると主語や述語、目的語を明確にする、なんてことは言ってみれば言語を扱う上での当たり前のルールである。なぜ、当たり前のことをやっているはずの乾の短歌がわたしたちの目から見て異質に映るのか。それは日本語の「省略に甘い」という性格に原因がある。

 先ほど新型コロナ対策本部を開催し、緊急事態宣言の発出を決定いたしました。
 東京都、京都府大阪府兵庫県を対象として、期間は4月25日から5月11日までであります。また、まん延防止等重点措置について、この期間において愛媛県を追加し、宮城県沖縄県も5月11日までとすることを決定いたしました。

 上記について、極力原文を崩さず省略されている部分を補うと下記のようになるだろう。

 先ほど政府は新型コロナ対策本部を開催し、緊急事態宣言の発出を決定いたしました。
 政府は、緊急事態宣言の期間について、東京都、京都府大阪府兵庫県を対象として、期間は4月25日から5月11日まででありますと決定しました。また、まん延防止等重点措置について、政府はこの期間において愛媛県を追加し、宮城県沖縄県も5月11日までとすることを決定いたしました。

 たった3文だが、これだけでも、日本語においてどれだけ省略があるかがわかるだろう。自動詞が強く、結果に重きを置くという日本語の性質は、本来あるはずの「原因」をうやむやにする。原因は責任とも言い換えられる。

私から自己紹介をしますから主語を補い聞いてください/佐クマサトシ「標準時」

 日本語は、責任の所在を有耶無耶にするのに、非常に都合のいい言語なのである。

 

www.tokyo-np.co.jp

www.tokyo-np.co.jp

 

 そのことは、いまの日本の現状とけっして無関係ではないと思う。そして、乾もきっとそれに気づいている。

子どもと関わると、先に生まれた自分には責任があると感じる。私が時代へするアプローチが足りなければ、将来不幸になるのはこの子たちだというのが、目に見えるから。(中略)私が私のことを“ラッキー”だと言うのは、この時代が個人に対して酷く無責任だと知っているからだ。※「ラッキーのCM」

 だから、乾は短歌において、わたしわたしと繰り返すのだと思う。原因が、責任がだれにあるのかを誰からみてもわかるようにする。日本語の正しい使い方を提示する。そうすることで、自らが抱える社会的な責任と向き合わない人間を厳しく批判する。乾の短歌にはどれもくっきりとした手触りがあるが、その感触は、短歌という定型詩の中で日本語そのものと拮抗することで生まれているのだと思う。

 乾の短歌についてのわたしの分析は以上だが、言わなければならないことはまだある。

 乾のやっていることはわかった。わかったうえで、わたしたちはどうするのかということだ。

矢印のマークが光ったらススメ 見本になるのは長女のツトメ/「ドキン」

結局は 学級委員に投票で決まった理由 ということだろう/「ドラマ」

終戦はわたし以外がしないならわたしがしなければいけないと思う/「glass-like」

 見本も、学級委員も、終戦も、誰もやってくれない。たとえやっても、責任なんて取ってくれない。だからいまのところ、納得していなくても、乾はロールを引き受けてくれている。

もう全部やめたわたしがビル裏で死んでるとこから始まるドラマ/「ドラマ」

 しかし、いつまでも乾だけに任せていいのだろうか。

夕日の丘にわたしだけしかいないよう ただ一身に受けとめている/「ロール」

 乾はひとりだ。

わたしがなにを話すべきかだんだんわかってくるこの生でなにを話すべきか/「永遠考」

 乾だけわかっていても駄目だ。わたしたちも知りにいかなければ。

映画のなかの洋服を着たいと思い、とくべつ行動には移さない/「恋愛運」

 知っただけでも駄目だ。行動に移さないと。

遊園地がいい いいですか?と聞いているよその子 その花柄のフリース/「ロール」

 始めはちいさなことからでいい。まずは相手の話をちゃんと聞くこと。

電話したらその子の親が出るような経験がもう一度必要だ/「ロール」

 ときには声をあげることも必要だ。

体当たりしようとは思っている いつも 体の量が足りない いつも/「ロール」

 声も数が大事だ。なにせ量が足りない。

定年の人にこれからですよと言った これからであってほしかったから/「真実の口」

 年寄りにも協力してもらう。これからですよは励ましの言葉ではない※2

公園にうずくまっている小さい子 いつか2歳のわたしだった/「ロール」

 わたしたちより先に生まれて、わたしたちより先に死んだ人たちのおかげで、わたしたちのいまがある。だから、わたしたちも、後に残るものを積み上げていかなくてはならない。

昼下がりエスカレーターでわけもなく子どもが子どもに抱きついている/「夢のあとさき」

 それが未来への責任の取り方だ。

 

 

 

 

 

〈補足〉

※1 なくはないのだが、乾がこれまでに作った歌の数に占める割合を考えたときに、やはり少ないように思える。フェミニズムの歌であることが一目でわかる、もしくは、文脈から切り離して読めばそうとれなくもない歌については、たとえば下記があるだろう。

おはなしをめぐらすためにあらかじめ壊れてしまっている女の子/「アンブロークン・ガール」

女流作家特集を買い読んでいる女流がどんな川か知らずに/「わたしのわたし」

片方の靴があるから片方の靴だけ履いた子もいるんだね/「夢のあとさき」

日本の中の綺麗なところを探してはなるべく綺麗なところに座った/「ロール」

強い女性が強い相手を倒すのは見ていてかっこいいと思うでしょう/「glass-like」

※2 励ましの言葉では?と思った方へ。栗木京子『新しき過去』に対する乾の書評「刻々と今が戦前に」を読むと、あながちそうとも思えないのである。一部引用する。

かわいい過去として振り返ることを、このままの日本では望めない。今が過去になるという歴史的な感覚を持って、作者には今言いきるべきことがある。これは余生ではない。

 

〈これから乾遥香の短歌を読む人へ〉

2023年1月号より「現代短歌」において連載されている乾の書評は、乾の短歌を読み解く上での取っ掛かりになる。また、それを抜きにしても読みごたえがあり、ぜひ手にとってもらいたいと思う。以下、私が乾の短歌観を理解する上で役に立った箇所、印象に残った箇所を引用した。

一人」の姿を確かめたい私には、大森は大森を差し出す代わりに他のテクストや他の女の人生を差し出しているように見えて仕方がない。※「あなたの顔は誰の顔?」「現代短歌」2023年1月号

コートは脱げる。女は脱げない。※「刻々と今が戦前に」「現代短歌」2023年3月号

装幀は饒舌なこの本にはしかし作者のあとがきがないから、現代短歌社賞の受賞のことばから引いた。基本は、短歌が先にあって読みや批評はあとから来る。歌自体が取れない責任を作者が取る。だから、この歌に加えてこの態度をされると、作者が逃げたと感じて私は嫌だ(作者が責任から逃れられるシーンはないと知っていても)。※「歌人の読書(作者としての問題)」「現代短歌」2023年5月号

②文学には苦境が書かれていることがあるが、批評は救いの言葉ではない。場合によっては過去に感じていた苦しみ自体を未来から否定することにもなる。※「枡野浩一以降のみんなへ」「現代短歌」2023年7月号

大体、反語やアイロニーで良くなる世の中ではもう既にない。読者も作者も単語に反応しているだけではないか。※「Je ne parle pas francais.」 「現代短歌」2023年9月号

 

最後に、

死ぬほど好きだと思うようなものは何もない。強いて言うなら、自分のことが好きだ。※「Only diamonds cut diamonds.」「現代短歌」2022年11月号